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Fragments 2007-

      Sorry. The translation of this page is only planned and it is still mostely in Japanese. Some of the writings are downloadable from here.
  • An Anthropology of Images [imeji no jinruigaku], Serica Shobo, 2018.
  • "Theories in images: Tadashi Yanai in conversation with Arnd Schneider," written by Tadashi Yanai and Arnd Schneider, in Arnd Schneider ed., Alternative Art and Anthropology: Global Encounters, Bloomsbury, February 2017, chap. 7 (pp. 89-94).
  • "Flowers' life: Notes and reflections on an art-anthropology exhibition," written by Tomoko Niwa and Tadashi Yanai, in Arnd Schneider ed., Alternative Art and Anthropology: Global Encounters, Bloomsbury, February 2017, chap. 6 (pp. 75-87).
  • "Beyond-beneath multinaturalism: reflection for an anthropology of nature and body," Gendai-shisô 45(4), 2017, pp. 177-189. 「多自然主義を越えて—自然と身体の人類学のための一考察」 『現代思想』(総特集 人類学の時代) 45(4)、2017年2月、192-208頁。
  • "Anthropology of images and power, or why anthropologies should continue to be a form of contemporary thought," Gendai-shisô 44(5), 2016, pp. 177-189. 「イメージと力の人類学—あるいは人類学はなぜ思想的営みであり続けるべきなのか」 『現代思想』(総特集 人類学のゆくえ)
  • "Shooting images in the field: historical and theoretical background," in D. Bundo, I. Kawase, S. Murao (eds.), The Art of Filming in the Field, Kokon Shoin, 2015.「フィールドにおける映像の撮影―歴史的・理論的背景から」分藤大翼・川瀬慈・村尾静二編『フィールド映像術』古今書院 2015年1月。
  • "Introduction: From anthropology to ciné-anthropology," in S. Murao, T. Yanai, M. Kubo (eds.), Ciné-anthropology: Toward a New Anthropological Practice, Serica Shobo, 2014, pp. 7-26.「人類学から映像ー人類学(シネ・アンスロポロジー)へ」 村尾静二・箭内匡・久保正敏編『映像人類学(シネアンスロポロジー)ー人類学の新しい実践へ』せりか書房、2014年、7-26頁。
  • "The inventions of Jean Rouch: ciné-anthropology of 'other-becoming'," in S. Murao, T. Yanai, M. Kubo (eds.), Ciné-anthropology: Toward a New Anthropological Practice, Serica Shobo, 2014, pp. 91-98.「ジャン・ルーシュの思想ー「他者になる」ことの映画-人類学」 村尾静二・箭内匡・久保正敏編『映像人類学(シネアンスロポロジー)ー人類学の新しい実践へ』せりか書房、2014年、91-108頁。
  • "Jean Rouch the cinéaste: His fiction films and their relationship with the Nouvelle Vague," (written together with Aya Ogawara), in  S. Murao, T. Yanai, M. Kubo (eds.), Ciné-anthropology: Toward a New Anthropological Practice, Serica Shobo, 2014, pp. 109-127.「映画作家ルーシューヌーヴェルヴァーグ映画を鏡として考える」(小河原あや氏との共著)村尾静二・箭内匡・久保正敏編『映像人類学(シ ネアンスロポロジー)ー人類学の新しい実践へ』せりか書房、2014年、109-127頁。
  • "Toward the politics of the third kind: an anthropological theorizing of biopower," Shisô 1066, pp. 244-263, 2013 「第三種の政治に向かって-人類学的生権力論の一つの試み」『思想』1066号(2013年2月)。
  • "Notas pessoais sobre A vida sensivel de Emanuele Coccia", Sopro (Brasil), no. 69, abril 2012, pp. 2-5.
  • "Bosquejo de una teoría de antropología de las imágenes: para una nueva "imagen del pensamiento" antropológica", Quaderns-e No. 16(1-2): 16-30, Institut Català d'Antropologia, Barcelona, 2011.
  • "Montage of affectus: Frederick Wiseman's New York," in R. Nishii, ed., Anthropology of Time: Affects, Nature, Social Space, 2011, pp. 38-61 「情動をモンタージュする-フレデリック・ワイズマンのニューヨーク」 西井凉子編『時間の人類学-情動・自然・社会空間』世界思想社.
  • "Another Side of Lévi-Strauss: Reflecting over the Problem of Continuity," Gendai-shisô 36(1), 2010, pp. 166-174. 「もう一人のレヴィ=ストロース-連続性の問題をめぐって」『現代思想』36(1).
  • "That Intense and Phantasmic Relationship with Things: For An Ontological Theory of Territory," M. Tanaka ed., Fetishism 1: Genealogy and Perspective, pp. 295-317, 2009 「事物との濃密で幻想的な関係-存在論的テリトリー論に向けて」 田中雅一編 『フェティシズム第1巻 フェティシズム研究の系譜と展望』京都大学学術出版社.
  • "From Structure to Nature, and to the Music of the Concrete: Reading Lévi-Strauss Today," Shisô 1016, pp. 144-161, 2008 「構造から自然へ、そして具体の音楽へ-今日レヴィ=ストロースを読むこと」、『思想』1016.
  • "Outline of a Theory of Anthropology of Images: "Science" and "Art" Through Ethnographic Audio-Visual Media," Japanese Journal of Cultural Anthropology 73(2), pp. 180-199, 2008. (abstract in English) 「イメージの人類学のための理論的素描-民族誌映像を通じての「科学」と「芸術」」 『文化人類学』73(2).
  • "Image, Light, Spinoza: The "Cinema of Immanence" and its Implications," Shisô 999, pp. 143-165, 2007 「映像・光・スピノザ―「内在性の映画」の示すもの―」『思想』999.

"Theories in images: Tadashi Yanai in conversation with Arnd Schneider" (2017)

posted Apr 27, 2018, 7:27 PM by Tadashi YANAI   [ updated Apr 27, 2018, 7:30 PM ]

"... And for me, Ciné-Anthropology was just such an opportunity for re-encounter. There I collaborated with the researcher of the “image-anthropology” school, and in my chapters I took the opportunity to revisit Rouch’s entire filmography––not only ethnographic films and ethno-fictions, but his Nouvelle Vague films, ciné-poèmes and ciné-portraits, and his fiction film Dionysos. My intention was to understand it as a unified whole, and to “translate” what Rouch expressed through filmic images into the language of written anthropology. And I found, in this effort, that Rouch invented not just ciné-trance and shared anthropology, but also a kind of anthropology of nature and of becoming (Dionysos, the Greek god of becoming, was the symbol for it)––a still brilliant vision of ciné-anthropology." (p. 90)
"... After finishing my fieldwork with the Mapuche of Chile in the early 1990s, I felt it necessary to see how image-thinking is thought and practiced in philosophy (Deleuze, Bergson, Spinoza, etc.) and in cinema. My research about the Mapuche had somehow forced
me to go beneath the level of experience usually presupposed in anthropology––the terms “culture” and “society” representing that level––and the “image” was, for me, the name of that subsoil I was looking for. Perhaps what was most important was not
the name. In a book called Superpositions, Deleuze commented on the “method of subtraction” practiced by the Italian theater artist Carmelo Bene: take a Shakespeare play, remove a main character from it, and see what kind of story emerges there … The point is to imagine how anthropology transforms by removing the words “culture” and “society” from it." (pp. 90-91)

Montage of affectus: Frederick Wiseman's New York (2011)

posted Mar 10, 2012, 9:24 PM by Unknown user   [ updated Jun 21, 2014, 7:35 AM by Tadashi YANAI ]

  • (...)  映像は具体的なものであり抽象的なものの表現に向いていない、としばしば言われるが、ワイズマンの「不可能な企て」は、まさに具体的なものによって抽象的 なものを表現すること(...)から始まる。その基本的な、ワイズマン独特の手続きを、ここでは「ショットの切断」と呼んでおこう。(...) 《法と秩序》の序盤、警官志望の若者が面接を受けている。警官志望の動機を尋ねられ、人助けしたい、と述べる若者に対し、面接官は出し抜けに、君は人を銃 で撃てるかね、と質問をする。若者が分からないと答えると、面接官は、それは君も考えてみたはずだ、どんな条件下で人を撃てると思うかとたたみ掛けるが、 その質問に若者が答える前にワイズマンはこのシーンを切ってしまう。(...) ワイズマンが編集の中で強調点を置くのは具体的な人物の具体的な行動ではなくて、人物や事物の中の「動揺の状態」であり情動(アフェクトゥス)であって、 それが他の登場人物の中の情動(アフェクトゥス)や、映像を見る我々の中の情動(アフェクトゥス)と反響してゆくのである 。
  • (...) 《福祉》の場合、様々なシークェンスの中で、同様のトラブルが、微妙な差異を含みながら繰り返し反復されることによっ て、次第に何かコントロール不能な、量的な圧迫感が生みだされてくる。法は理想的な条件のもとではすべてが明瞭であるが、扶助を求めてくる人々の場合、た いてい家族関係も複雑で、一日一日を生き延びるために住所を頻繁に変えることも多く、そのために福祉センターや社会保障センターの情報も混乱していて、結 局、書類の不備のケースと扶助制度の悪用のケースとがしばしば識別不能になってくる。(...) 金曜日の夕方になって、書類不備で月曜日にもう一度来いと言われたら、彼らは瀬戸際に立たされる。扶助を受けられなければ、住居も食べ物もないからだ。法 の無時間的な時間性のもとでは金曜日の次に月曜日が来るだけだが、人間の生身の身体にはそれ自体の時間性があるのであり、金曜の晩から月曜の朝まで、何か を食べ、どこかで寝なければならない。
  • (...)  バージャーは、「広告は本質的に、現実とではなく白昼夢と結びつく」のであり、「広告は、未来形で語る。しかしその未来への到達は果てしなく先に延ばされ る」と書く。[《モデル》が描く]広告の時間は、まさに人々を「自分もそうありたい」と夢想させる、ある「未来」へと引っ張ってゆく時間であるが、しかし その白昼夢は、それが白昼夢である限りにおいて、本質的に実現不可能なものだと言える。ただし、(...) 広告が作り出す白昼夢は、たとえそれが永遠に未来形であるとしても、それを白昼夢として生きること――あるいは、少なくとも、そのように生きることへと誘 う魅力そのもの――には否定しがたい現実性がある。
  • (...)  イントロの数ショットのあと、《セントラル・パーク》は、「開かれた閉鎖空間」とでもいうべき資本主義的な経済システムの外側で暮らす者たち――公園に棲 む鳥たちや小動物たち――のショットによって始まる。確かに、それらの動物たち、また、映像に繰り返し現れる草木や岩や道路や橋は、スピノザのコナトゥス さながらに自己の存在に固執しつつ、セントラル・パークという場所を支える、不可欠の主体である 。(...) セントラル・パークは、人々が自然の中で休息を求める場所でもあれば、スポーツなどのレクリエーションの場所でもあり、政治的アイデアを表 現・共有・示威する場所でもあれば、大規模なコンサートが行われる場所でもある。そうした時間性の間の齟齬は、広大な公園の各部分が特定の機能を担うこと によって通常は表面化しないとはいえ、時には激しい衝突をも引き起こす。セントラル・パークはだから、自然と人間の様々な時間性が併存するだけでなく、競 合する場所でもあるのであり、もし様々な時間性が調停されずに放置されれば、公園はたちまち荒廃してしまうだろう。
  • (...)  法学者として出発したワイズマンが法学に見出しえず映画の中に見出したもの、それを一言で言うなら、人間が「身体をもつ」ということではないだろうか。法 のシステムは、主語(主体)が述語(行為や状態)を律することを前提とするが、しかし人間が「身体をもつ」という根本的事実は、そうした前提の不確かさを 露呈させる。《福祉》における、飢え、睡眠を求め、また病気になり、路頭に迷う身体、《モデル》における、華やかに輝くとともに疲労する身体、そして《セ ントラル・パーク》における、公園の自然や公園に来た他の人々と多種多様な関係を取り結ぶ身体。(...) 法を身体の中に、主語を述語の中に、制度を生の中に置き戻すこと、そしてその上で制度=施設(インスティテューション)におけるそれらの錯綜した関係を考 えること、これがワイズマン映画の一貫した企てなのである。 

Another Side of Lévi-Strauss: Reflecting over the Problem of Continuity (2010)

posted Mar 10, 2012, 9:23 PM by Unknown user   [ updated Jun 21, 2014, 7:36 AM by Tadashi YANAI ]

  • (...)  [レヴィ=ストロースは]その著作の中で、一貫して、世界を不連続性ないし離散性の相のもとで捉えることの正当性を強く主張した(そこから彼の構造主義が くる)。しかし、彼の著作の細部を注意深く読むとき、そうした「強い」レヴィ=ストロースの下に、自らが排除するはずの連続性を敏感に感じ取り、時にそれ に魅惑すらされる、もう一人のレヴィ=ストロースが現れてくる。不連続性と連続性の二つの主題は、あたかもソナタ形式の音楽におけるように複雑に絡み合い つつ、時に未解決の不協和音を残しながら彼の諸著作の中を走り抜けていく(...)
  • (...) 『純粋理性批判』においてカントは、概念的な判断様式から一連の範疇(カテゴリー)を引き出したが、レヴィ=ストロースは、そう した概念化を行う意識よりも下にある思考の次元、言いかえるなら、自然そのものが現象する中で、感覚的かつ知的な対象としてのイメージがコード化されて認 識される、イメージ的思考の図式を考察の対象としたのである。(...)  上で「神話理性批判」と言ったのは単なる語呂合わせではない。カント的理性と同様に、神話理性もまた仮象を生み出すのであり、だから神話理性の批判が必要 なのだ――『野生の思考』の一つの核心はそこにある。(...) メトニミー的なイメージの連鎖として、世界の連続性および世界との連続性を回復するかの ように用いられるとき、神話理性は我々を誤謬の中に誘い込む。
  • (...) [『神話論理』における]神話分析を通した人間の基層的な経験の構造の検討において、最も重要なテーマの一つとして現れるのが、 まさに連続性と不連続性の問題である。実際、人間が世界を不連続なイメージの体系によって把握しようとしても、自然はそうした離散的なコード化を容易に許 さない現象(星雲や虹、暗闇、病気、毒…)によってそれに抵抗するし、また人間がそうした自然の中を生きることは、時間の中での不断の変化をも、抜き差し ならない形で内包している。だから連続性とは、神話的思考がたえず衝突する固い岩盤のようなものなのだ。
  • (...) 『神話論理』の第三巻『食卓技法の起源』の、文字通り「神話から小説へ」と題された部で、小説とは、歴史の中で神話がその構造を 喪失する際に生まれた断片を縒り合せつつ語られる、「不幸な」文学ジャンルであるとしつつ、次のように「小説家」を特徴づける。「小説家は、歴史の熱気が 氷解を引き起こして氷原からひきはがした浮遊する氷塊のあいだを漂いながら漕ぎ進むことになる。彼は散在する素材を拾い集めて、それがとる姿に従って再利 用するのだ。(...)」 (...) [しかし]ここで翻って考えるなら、「散在する素材を拾い集めて、それがとる姿に従って再利用する」ことを、人一 倍研ぎ澄まされた感性によって実践してきたのは、レヴィ=ストロース自身だったとも思われる。
  • (...) 『神話論理』に限らず、彼のどんな著作を読んでも、彼以前および彼以後の誰も行わなかったような独創的な形で人間の不連続的なイ メージ的思考を叙述するレヴィ=ストロースの傍らに、事物の連続的イメージの中から不連続的な構造が析出する一瞬を拾い上げるもう一人のレヴィ=ストロー スが見え隠れしている。そして幸いなことに前者は後者の足跡を消し去らず、著作の端々に我々にとっての手掛かりを残してくれている。我々は、そういった両 者の間の豊かな、音楽的な往復運動を想像する中で(この小論自体がその一つの試みであるが)、アクチュアルな、新しい「イメージの人類学」を構築すること ができるだろう。

That Intense and Phantasmic Relationship with Things: For An Ontological Theory of Territory (2009)

posted Mar 10, 2012, 9:23 PM by Unknown user   [ updated Jun 21, 2014, 7:37 AM by Tadashi YANAI ]

  • (...) 彼[ザッハー=マゾッホ]は、自らの文学作品を通じて切り開いた地平が、未知の快楽と未知の危険の両方が充満した両義的なものである ことを明確に自覚していたのだろう。だから彼は、マゾヒズム――そしてフェティシズム――が近代社会の権力関係をすり抜けて新しい世界(外的な政治的・宗 教的権力から解放されたその世界は確かに、みなが平等で働き者で裕福で清潔な世界かもしれない…)を創出する可能性を示しつつも、他方でそれが実現するは ずの世界を、生ぬるいユートピアとして提示することも決してしなかったのである。
  • (...) それにしてもなぜ、あたかも光あるところに必ず影が付きまとうように、天上的な存在への崇拝につねに地上的な存在への崇拝が伴う のだろうか。なぜマプーチェの人々は、カマリクンやその他の儀礼を至高神への儀礼として「純化」し、邪霊との取引(カルクトゥン)として疑われるような 「不純な」要素を一掃してしまわないのだろうか。それはおそらく、とりわけ(キリスト教の影響を受ける以前の)伝統的なマプーチェの宗教的思考の中では、 人間存在が本質的に個別的で地上的で物質的だと考えられていたからだろう。(...)
  • (...) おそらくブニュエルにとって決定的に重要だったのは、人間が具体的・物質的にしか存在しえないという根本的事実であり、彼はだか ら、作品の中で人物から社会的な地位や役割を剥ぎ取り、彼らが生身の肉体を持った人間として行動するような状況を繰り返し作り出したのである。その意味 で、我々は彼の映画を、存在論的フェティシズムの映画、ないし存在論的テリトリー論の映画と形容することができるかもしれない。
  • (...) あたかも昆虫か動物のように、ラス・ウルデスのテリトリーに張り付いて離れない人々。彼らにとって、ラス・ウルデスの地そのもの が、自らの存在の物質的基盤としてのフェティッシュであり、そこで繰り広げられる「事物との濃密で幻想的な関係」が、彼らの人生の全てなのだ…  (...) これは本当にラス・ウルデスだけの話なのだろうか。我々自身の生活においても、その様々な局面において、様々な意味あいにおいて、ラス・ウルデスが存在し ている――あるいは《皆殺しの天使》が寓話的に示しているように、潜在的な形で存在している――のではないだろうか。
  • (...) このように見るなら、常識的にはラス・ウルデスのようなテリトリーへの固着の正反対とみなされがちな今日のグローバル化も、地球 規模で展開する「不毛なテリトリー」への固着――それをマルクスに敬意を表し、しかしマルクスの用語法からは離れつつ、「商品のフェティシズム」および 「貨幣のフェティシズム」と呼んでもいいかもしれない――と考えることができるように思われる。

From Structure to Nature, and to the Music of the Concrete: Reading Lévi-Strauss Today (2008)

posted Mar 10, 2012, 9:22 PM by Unknown user   [ updated Jun 21, 2014, 7:38 AM by Tadashi YANAI ]

  • (...) 『悲しき熱帯』の終わりの方で彼[レヴィ=ストロース]は、民族学者の野望は「根源に遡ること」であると書く。一言で言えば、彼 の研究の根本的な動機は、西欧の近代社会が自らを確立した時期に決定的な影響を与えたアメリカ大陸の先住民のもとに自ら赴き、そこで「自然人」としての人 間のあり方について根源に遡って考えること、そして、そうした遡行の作業によって獲得した視点から自らの社会を捉えなおすこと――そして望むらくはそうし た知見に基づいて社会を変革すること――にあったと言えるだろう。
  • (...) レヴィ=ストロースの人類学は、最初から最後まで、研究対象を客体化してそのメカニズムを解析し、それを応用に役立てようとする 社会科学ではなくて、対象との関係の中で人間の根本的な存在条件を知性・感性の両方を手がかりに探求し、そこから人間社会を再構想しようとする、人類学= 政治哲学=倫理学であった。
  • (...) 『悲しき熱帯』の「悲しさ」とは、確かに直接的には西欧文明の拡大のもとで破壊されつつある社会が引き起こす「悲しさ」ではある けれど、その彼方にはどこか、人間存在の有限性そのものに由来するような、いわば存在論的な「悲しさ」――ベンヤミン的にいえば「楽園の言語」が失われた 「悲しさ」――が鳴り響いているのだ。
  • (...) 我々の内に潜んでいる「自然」という主体――レヴィ=ストロース自身、先の引用にもあるように、「身体自体のなかにすでにかすか に現われているより深い真実」について語っていた――が、我々の意識的な自己の下部で、いかにして「自然」自身を表現しているかを、音楽の作曲にも似たプ ロセスを通じて結晶化させ、それによって、我々自身の社会に向けてひそかに「目覚まし時計」を設計すること、それがおそらくレヴィ=ストロースの人類学の 最終的な企てなのである。
  • (...) 神話素の旋律の響き合いを聴き取ることを重視するあまり、そして、神話を我々の身体の奥底で聴き取る「自然」的主体を重視するあ まり、彼[レヴィ=ストロース]は神話素の連鎖が人々に与える具体的イメージ、そしてそうした具体的イメージを感じ取る実在的な主体を、消去してしまって はいないだろうか。「自然」的主体への視点移動の意義を十全に認めた上で、しかし他方で、有限な存在としての我々の一人一人が具体的にしか存在しえないこ と、「自然」的主体は、結局のところ(少なくとも我々自身にとって)そうした有限で具体的な存在を通じてのみ意味を持つことは、重要な人間的事実ではない だろうか 。
  • (...) レヴィ=ストロースのこの[『神話論理Ⅰ』の序曲における]音楽論は今日、アマチュアの音楽愛好家によるいくぶん狭量な現代音楽 批判と見なされることが少なくない。しかし、彼の議論を裏側から読み返すなら、二十世紀の西欧社会において、楽音という極めて抽象的な素材を用いて神話的 思考を維持してきた近代西洋音楽さえもが、もはや成立不可能になってきたということ、そして、セリー音楽やミュージック・コンクレート―そしてそれ以降の 様々な音楽上の革新―はそうした近代西洋音楽の「廃墟」から出発するものであること、を鋭く指摘するものとみることもできる。
  • (...) 背後にコードが共有されていることがもはや自明ではない言葉や音や事物や映像の表層から、そこにありえたコードの痕跡ないしあり うるコードの可能性を注意深く読みとりながら――時にデュシャン風の「レディメード」の深読みでも行いつつ――それらを織り合わせ、いうなれば一種の「具 体の音楽」を作り出すことによって、一瞬の間、「自然」の真理を表出させること。そうした作業を我々は今日、意識の有無、成功の成否に関わらず、我々の生 そのものの意味を確保するために、密かに行うことを余儀なくされているのではないだろうか。

Outline of a Theory of Anthropology of Images: "Science" and "Art" Through Ethnographic Audio-Visual Media (2008)

posted Mar 10, 2012, 9:21 PM by Unknown user   [ updated Jun 21, 2014, 7:38 AM by Tadashi YANAI ]

  • (...) フィールドワーク初期の人類学者にとって、多くの事物は不確実な形でしか既知の「かたち」と結びつけられないものであり、時に 「かたちをもたない」イメージでもある。経験の蓄積の中で、人類学者は自らを取り囲むイメージをしだいにより安定した「言語・記号システム」(現地のそ れ、自言語等のそれおよび分析上のそれ)と関係付けてゆくが、しかしそこで対象が生き生きとした形で捉え続けられている限り、「かたちをもたない」イメー ジの次元は消えないだろう。
  • (...) 民族誌映像の制作においては、撮影者も被写体も、ある「動き」の中にあるのであり、民族誌映像とはそういった流動する現実の中 で、撮影者と被写体が相互に影響しあい、ある部分両者の意図が識別不能になりつつ、制作されるものなのである。(...) こうした相互影響の関係は今日しばしば「共同制作」と呼ばれるが、そこに主体間の意識的な協力関係以前の抜き差しならない関係が含まれていることは見落と せない。それはドゥルーズのいう、本来無関係な物同士の同時的な生成(devenir, becoming)とみることもできる。
  • (...) アザラシ狩りのショットのような全体志向的なショットをカット編集に組み入れつつ、映像の具体性の中で「全体」を表現しようとし たフラハティの手続きは、言葉の抽象能力を利用したマリノフスキーの手続きとは異質なものである。そして、フラハティがそこで表現した「全体」とは、マリ ノフスキーのそれのような客観主義的な分析の中で想定される「社会構造の明瞭で確実な輪郭」ではなく、むしろ撮影者と被撮影者が不可分になり、客観的現実 と主観的現実が不可分になるような瞬間に忽然と、「認識と同時に啓示でもある」ものとして現出してくる特別な「全体」であった。
  • (...) 人類学から見た「映画=トランス」の意味は何だろうか。(...) それは被写体の現実の直接的な「憑依」によって生まれるがゆえに、人類学者の思考が持ち込みがちな西欧/非西欧、伝統/近代といった区別を最初から越えた ものである。(...) ルーシュはこの強烈に伝統的でありながら同時に強烈に近代的でもある現実を、それをどう人類学的に言語化=カテゴリー化するか苦慮することなく、ただそれ によって「憑依」されつつそのままフィルムに焼き付けたのである。
  • (...) ガードナーの映画は、ある意味でルーシュのそれに劣らず「映画=トランス」であると言えるかもしれない。ただ彼の場合は、人間の身体をも含めた「物質的なもの」によって「憑依」されるのである。

Image, Light, Spinoza: The "Cinema of Immanence" and its Implications (2007)

posted Mar 10, 2012, 9:20 PM by Unknown user   [ updated Jun 21, 2014, 7:39 AM by Tadashi YANAI ]

  • (...) 映画の中の諸存在が、人物や事実や風景であると同時に、究極的には同一の光である、あるいは、究極的には同一の光に内在するという事 実が映画作家によって考え抜かれる時、映画的思考は、あらゆる存在がそれ自体であると同時に、究極的には同一の神=自然であると考え抜いたスピノザの「内在性」の哲学と、興味深い反響関係を営みはじめるように思われる。
  • (...) 光の内在性を徹底的に探求した映画作家たちが、同時にこのような生の根本的な事実を我々に示してきたのは、不思議なことではない かもしれない。なぜなら、我々の生そのものが、光によって周囲の事物や風景を認識し、光によって直接、間接に与えられたエネルギーを摂取する中で営まれて いるのであり、その意味で、映画的存在と我々自身の存在の間には、最初から並行関係が存在しているからだ。
  • (...) ドライヤーがフィルムに焼き付けた「光=イメージ」は、従って、俳優たちのアクションに焦点を当て、ストーリー上の意味の明確さ を強調する古典的な照明によるものとは根本的に異なったものである。それは、人間同士が繰り広げるドラマを含みつつも、それと同時に、人間を取り囲む事物 や自然の全体が与える光と関係しあい、それを眺める我々を、人間中心的視点の狭隘さを脱出した地点へと運んでいくのである。
  • (...) キアロスタミは、彼の風景写真集に収められたインタビューで「自然は、様々なスタイルと方法で描く、素晴らしい画家なんだ」と 述べ、好きな画家は誰かと尋ねられると再度、「私が一番好きな画家は自然だ」と答えているが、それに倣って言うなら、彼にとって自然こそが最高の映画作家 なのだ。そして、この自然という言葉を広い意味で理解しても、キアロスタミの考えには反すまい。《10話》が素人俳優を用い、彼らの、彼ら自身の日常性に 基づいた自然な演技を重視するのも、そうした俳優たちが自然の一部を構成するからである。そして究極的には、映画監督も――そして観客も――自然という唯 一の制作者の一部なのであり、その唯一の制作者の一部として、つねに制作者であり続けるのである。

  • (...) ほとんど無限に緩慢な時間の中で、黒い塊は犬となり、青い海は白くなり、空と、さらに陸と不可分になり、すべてが真っ白になっ て、その中に犬や波を吸い込んでゆく。この《5 five~小津安二郎に捧げる~》の第三エピソードほど、映画のイメージが「光=イメージ」であり、そして我々自身の存在が、自然=神の白色光の中にある ことを見事に示した映像は存在しないのではないだろうか。

  • (...) この映画[ビクトル・エリセ《マルメロの陽光》]の面白い点の一つは、エリセが、アントニオ・ロペスによる「マルメロの木に含 まれた宇宙全体」との対話が決して牧歌的な自然の中で営まれたものではないことを明白に示していることである。ロペスの内庭には近くを走る電車の騒音が響 きわたり、その周囲には都市郊外の団地のビルが広がり、そして夜は、たくさんの住居にテレビの光が燈る。ロペスが絵を描くときに好んで聞くクラシック音楽 のラジオ番組は、時折音楽を中断して国内や国外の時事ニュースを伝える。ロペスがそれでも一本のマルメロの木を描き続けるのは、そうした様々なもの(電 車、団地、テレビ、ニュース)がやはり「マルメロの木に含まれた宇宙全体」の一部をなしていると彼が考えるからであり、そして、そうしたロペスの姿をカメ ラで追うエリセも同じように考えるからである。なぜだろうか。それは、どんなに我々が我々自身の生活を人工的なもので覆ったとしても、我々が、マルメロの 木と同じように、白い光の中で――太陽の光だけでなく、テレビ画面の光も、そしてもちろん、映画を映し出す光も含めて――そこからエネルギーを受けて生活 を営んでいることに変わりないからである。

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