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「「他なるもの」から「似たもの」へ」(1994)

2012/04/20 6:33 に Tadashi YANAI が投稿   [ 2012/04/20 6:33 に更新しました ]
民族誌家は,その記述の対象について「一般性」を求めてゆく限り,何らかの形でこうした操作を行わざるを得ないと言うことができる。つまり,ある社会,ある文化,あるいはある集団についての民族誌を書こうとするなら,我々は一般化すること,すなわち,その社会,その文化,その集団において繰り返される概念や行動の一般性を抽出することを,避けることはできない。そして,この過程において,「純粋なもの」「真正なもの」「豊かなもの」は「不純なもの」「偽のもの」「貧弱なもの」に対して常に優位に立つことになる。なぜなら,「純粋なもの」「真正なもの」は「不純なもの」「偽のもの」の中で部分的に反復されうるが,その道は困難であるからであり,同様に,「豊かなもの」は様々な反復を生みだしうるが,「貧弱なもの」にはそれが困難だからである。セバスティアンの語りは,幾多の「貧弱な」,「不純な」,あるいは「偽の」ヴァージョンを生み出すべく反復されうるが,すでにそれ自体「貧弱で」「不純で」「偽の」ものであるフアンの語りとなると,その可能性ははるかに少なくなってしまう。

ところで,ここで,冒頭で触れたドゥルーズの「一般性」と「反復」の区別を思い起こし,次のような問いを立ててみよう。「一般性」から出発するのでなく「反復」から出発するならば,言い換えれば,民族誌的現実を行動としての反復の連鎖として見たならば,何が見えてくるであろうか?確かにこれは大きな展望の変化をもたらすといえる。この観点からみるなら,我々は「純粋なもの」にも「不純なもの」にも,そして,セバスティアンにもフアンにも,同様に興味を持つことができる。セバスティアンは,(少なくとも表面上は)マプーチェ的な伝統をきわめて忠実に反復しており,この反復の過程は当然,詳細な研究に値するものである。他方で,フアンの伝統の反復は確かに不完全で貧弱なものだが,彼はそのかわりに別のこと,つまりチリ文化のいくつかのテーマを同時に反復するということをも成し遂げている。彼のたどたどしい語りの背後には,言葉にこそあらわれないが,非常に複雑で豊かなドラマが存在しているのであり,一言で言うなら,これは,マプーチェ的テーマとチリ的テーマの混合的反復のきわめて興味深い一ケースなのである。反復の見地からは,さらに,別の立場からでは問うことができなかったような,次の問いを立てることができる。すなわち,セバスティアンもまた,その純粋に伝統主義的な外見の背後に,チリ的なテーマの反復を隠しもってはいないだろうか? この限られたスペースでこの点について展開する余裕はないが,実際そう考える根拠は十分存在するといえる。

これらの[マプーチェの詩人レオネル・リエンラフによる]二つの詩の検討を通じ,筆者は次の三つの点を明らかにすることができたと考える。第一に,ここで筆者の提示する方法は,古典的な民族誌の領域だけに適用されるものではなく,従来の民族誌が周辺的な形でしか扱わなかったような,先住民による詩的創作という不純な領域にも適用されるものである。第二に,これらの不純な領域を扱うに際し,上述の方法は,それらを(諸)伝統と近代との異種混汚的な反復として検討するという,具体的な手続きを提示する。そして第三に,この方法は,リエンラフの詩を,民族誌家が今日そのフィールドで直面する数多くの現象とともに,「我々」自身に「似たもの」である試みとして理解することに可能性を開くものである。なぜなら,この方法によって検討されるのは,「彼ら」が,伝統と近代とに何とか折り合いをつけつつ,それらを同時に生きる仕方を未来に向かって作り出してゆく試みそのものだからであり,それはまた,「我々」自身の生のドラマと類比的なものだからである。
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