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「アマゾン上流域における幻覚・治療・芸術」(修士論文)

2012/04/20 6:30 に Tadashi YANAI が投稿   [ 2012/04/20 6:32 に更新しました ]
第I部 民族誌的コンテクスト-アマゾン上流域における幻覚とシャーマニズム 第1章 イントロダクション/第2章 アマゾン上流域における幻覚と社会/第3章 異なる「現実」とその意味(I)/第4章 シャーマニズムの実践/第5章 異なる「現実」とその意味(II)
第II部 考察 第6章 幻覚の問題/第7章 夢・芸術・分裂病―異なる「現実」の経験/第8章 治療とその解釈/第9章 身体性について―アマゾン上流域における幻覚の意味(総括)
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(…) 前章[第2章]では、アマゾン上流域に位置する5つのグループについて、具体的に、人々と幻覚のかかわりをみてきた。これらの5つは、地理的にはコロンビア、エクアドル、ペルーの三国とブラジルの隣接地域にまたがり、言語系統もそれぞれ異なっている。そこで、おのおの微妙に違った形でありながらも共通にあらわれてきたテーマは、各々の社会に住む人々が、幻覚経験の中に日常的な生活世界での経験を越えたもう一つの経験様式をみとめ、それに積極的な価値を付与している、ということである。民族誌を検討するうちにしだいに明らかになってきたように、この日常的現実からはみだした経験の相は、幻覚性植物による幻覚の中でのみ現出するのではなくて、夢や儀礼や芸術的経験とも密接に結びついたものであった。そこで以下では、こうした経験を一括して、日常的現実における経験とは異なった経験様式という意味で、<異なる「現実」の経験>とよぶことにする。

(…)こうした異なる「現実」は、主に夢や幻覚を通して経験されるものであるが、それは同時に儀礼や音楽、踊り、デザイン等の芸術・芸能の領域とも不可分に結びあっていた。幻覚と音楽は非常に密接に結びついており、アマゾン上流域ではアヤワスカ(ヤヘ)が飲まれる場合、ほとんどセッションのあいだじゅう歌が歌いつづけられる。幻覚とデザイン等の表現的行為との結び付きも顕著で、デサナ-バラサナでも、ヤグアでも、カネロス・キチュアでもみられ、とくにシピボ・コニボではこれが高度に発達して、さらに歌とも結びついていた。

(…)それでは、アマゾン上流域の人々がかくも重視している「知識」とはいったい何なのであろうか。それはまず、具体的・実践的な意味を含んでいる。ライヘル・ドルマトフがいうように、精霊は彼らに獲物の居所や魚をとる場所、果実の熟している場所、敵は誰であるか、敵にどうやって逆襲することができるか、を幻覚の中で教えるのであり、このことは幻覚経験が遠隔視のような超感覚的知覚をしばしば可能にすることともかかわっている。しかしながら、この「知識」はもっと深い意味をもふくんでいる。デサナは、たんに知覚することと、より深い次元での認識、すなわち「ひびき」を聴くこととを明瞭に区別していた。前述した精霊たちが与えてくれる具体的・実践的な知識にしても、多くの場合たんにシンボルとして与えられるのであって、それらの「ひびき」を聴く力がなければ役に立たないわけである。この「ひびき」を聴く力というのは、単純な観念連合や暗号解読表的な知識ではなくて(それならみな容易にマスターしてしまうはずである)、もっと精妙な、おそらく言葉では表現しがたいものであり、この力を獲得することが、人々が異なる「現実」と接触する目的である。アマゾン上流域のいろんな民族が、「知るために」幻覚剤をのむというのはまさにこの意味においてであると思われる。

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(…) 前章[第4章]では、この異なる「現実」にもっとも深いかかわりをもつ存在であるシャーマンが、そこからいかに、どんな「知識」を引き出してゆくのか、またその「知識」をどう利用してゆくのか、という問題意識を持ちつつ、アマゾン上流域のシャーマニズムに関するデータを整理してみた。(…) 前章で断片的に主張したいくつかの命題[は](…) およそ次の3点くらいにまとまるだろう。(1)シャーマニズムは、個人性と普遍性をもった現象である。(…) シャーマンの知識・力・テクニックは、文化的枠組みからある程度独立に、個人個人の修業の過程で獲得されてゆくものであり、それは裏を返せば文化の枠をこえた普遍性に至る可能性をもつものである。従ってシャーマニズムを単なる文化のサブシステムとみなすことはできない。(2)シャーマンの修業は、師匠から弟子への知識の伝授ではなくて、幻覚状態の中での精霊による啓示を中心としている。この啓示は、カネロス・キチュアの例にみられたように、しばしば十分明確なものであって、そこに師匠による解釈のシステムが介在するとは必ずしも言えない。(3)シャーマンの治療は、シャーマンの歌を中心に展開されるが、そこで行われることは「象徴的コミュニケーション」ではなく、もっと深い知覚のレベル、いわば知覚の身体的レベルでのインタラクションである。それはある意味で芸術的経験に比することができるのかもしれない。(…) 第II部(第6章~第9章)では、アマゾン上流域のシャーマニズムが提起している問題を理論的に検討することになるが、そこで議論の中心になるのはまさにこの三つの命題の理論的インプリケーションである。

(…) ショーメイユはさらに、修業期間中に、幻覚剤のたび重なる効果によって体がバラバラになったように感じる経験を、<身体の破裂>と呼んで重視している。彼はこうして、修業期間中に、一度死ぬ。修業を終えて自分の家に戻るとき、日常生活者としての彼の人格や、彼の身体は「再生」する。しかし注意しなければならないのは、ここでの「再生」は、ふつうのイニシエーション儀礼でみられる「死と再生」のパターンとはニュアンスを異にしていることである。修業を終えたシャーマンは、たしかに「再生」するのであるが、それと同時に死んでいるのである。ヤグアでは、シャーマンは、(毒殺以外の方法で)殺すことはできないとされる。なぜなら、彼はすでに死んでいるからである。彼はふつうの人間として再生するのではなく、生者と死者の中間的存在として再生するのである。生と死の対立をこえてしまうシャーマンが、人間の枠をもこえてしまうことは不思議ではない。彼は精霊の言葉を理解し、精霊はしばしば彼に憑依して彼と一体化してしまう。他方でシャーマンは変化の術を心得ており、必要とあればジャガーや鹿の姿をとることもできるとされる。

(…) 伝統文化の最も洗練された代表者であるはずのシャーマンが、その道を進めば進むほど伝統文化からはみ出してしまうこと、これがシャーマニズムのパラドックスである。そういう意味で、カネロス・キチュアの<サチャ・ルナ(sacha runa)>という言葉はこのパラドックスを見事に示したものと言えるかもしれない。サチャ・ルナとは、人生のプロセスをよく理解し、知性的で探究心が強く、創造的な人間として自己形成をしてゆく人、「知識」のある人であり、カネロス・キチュアの理想である。(…)カネロス・キチュアの社会において、サチャ・ルナへの道はシャーマンの道にほかならない。ところで、このサチャ・ルナという言葉は、文字通りには「野生の人」、「ジャングルの人」という意味であり、先の「知識ある人」という意味は、ジャングルの中に孤立して住むことのできる人、というところからきている。これは単に言葉の問題ではない。真のサチャ・ルナは実際に、社会集団の絆から離れ、社会のリーダーの枠をとびこえて、文字通りジャングルの中に住んでしまうのである。(…) 異なる「現実」はただ人間に知識や力をもたらすだけではない。それは人間の日常生活、社会生活、文化を解体してゆく可能性をもったものであり、社会にとってネガティブな力にもなりうるものである。創造的でありかつ破壊的であること、これが、異なる「現実」の最も深い意味である。

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(…)以上、この章[第7章]では少しまわり道をして、夢・芸術・分裂病といったテーマを扱ってみた。その目的は、すでに明白だと思われるが、前章[第6章]で幻覚について論じたときに提起した問題が、瑣末なことではなく、人間の経験のかなり広範囲にわたる部分とかかわったものであることを示すことであった。ユング、[オクタビオ・]パス、木村[敏]のそれぞれの論の目指すところは、微妙な違いはあるが、およそ前章で私がとった立場と同じであった。それらの議論を経て明らかになったことを、われわれの目的に即してまとめてみると、次の二つぐらいが重要なポイントとなるであろう。

まず第一に、夢や芸術や分裂病といった現象もまた、幻覚と同じように、たんなる想像の世界に属するものではなくて、それ自身の自律性と未知性をもったものだということである。その意味で、これらの現象は、(…)すでに何度も用いてきた<異なる「現実」>という言葉が言及しているものと同じものにかかわっている。そして、この章の議論で明らかになったことの一つは、これらの現象の自律性と未知性が、「自己のなかの他者の現出」ということに由来していることである。ユングの「個性化」、パスの「他者性」、木村の分裂病についての理解は、まさにこの点に注目して生まれたものである。

第二のポイントは、第一のポイントの帰結として出てくる。もし幻覚や夢や芸術や分裂病といった現象が日常的現実とは異なるもうひとつの経験の相と関連しているのなら、日常的現実とは一体何なのだろうか。木村は我々の「常識」について考察をめぐらして、それが(…)われわれ自身の必要のために、便宜的に、実践的につくり上げられたものだと考えた。彼のその後の分裂病論の成果、とくに「内的差異としての自己」の概念をもとにしてこの問題を再考してみると、いま一歩認識を深めることができる。日常生活において我々は、たえず自己を自己として非自己から分離する作業を行っているのに対し、分裂病を含めて「他者性」の経験においてはこの作業が停止または逆転してしまう。ところで、我々の「常識」が個物の個物性、個物の同一性、世界の単一性から構成されているとすれば、つまり「1=1」を認めることであるとすれば、それは「私が私であること」を基盤にしていると考えてもいいはずである。といことは、「常識」が「常識」として成立しうるのは、ただ我々が絶え間なく自己の差異化作用をはたらかせて、自己を生産し続けているからだ、ということになる。この自己の差異化作用自体は少しも自明なものではない。(…) オクタビオ・パスは「異なる現実(otra realidad)は少しも奇跡的ではない: そこに在るのだから。日常の世界は日常の世界である: 何という奇跡だろう!」と述べているが、その通りだというべきだろう。

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(…) シャーマンは治療その他の実践の場において、さまざまな呪物(フェティッシュ)を用いる(あとで述べるように治療歌もその一種と考えることができる)。シャーマンは、そうした呪物を手掛かりにして、異なる「現実」と向き合い、その力を利用していく。(…) それらはたいてい薄ぎたない、どこにでもありそうなガラクタであって、それが何故そんなに重要なのか、合理的には理解できないような印象を与える。こうしたことは、どう考えたらよいのだろうか。この問題について考えるのに、ペルー海岸部のシャーマニズムにおいてメサ(mesa)と呼ばれるものが、よい手がかりになるように思われる。

(…) シャロンは、メサの物品[シャーマンの儀礼で祭壇のようなものを構成する「力の物品」の集合体]について次のように説明する。「メサの力の物品は、治療師が仕事をはじめるときに集合させられるでたらめなコレクションではない。それらは(注:治療師自らが)実践をつづけてゆくうちに少しずつ獲得してきたものである。治療師は、必要不可欠なもの-用具および2、3の物品-だけから出発する。年月がたつごとに彼はそのコレクションをふやしていく。(…) それぞれは、幻覚性のサン・ペドロ[サボテンの一種]の飲料の触媒的な効果によって活性化されるそれ自身の「役割」のほかに、治療師にとっての特別な意味をもっている。」 (…) エドゥアルド[シャロンの研究協力者であったシャーマン]はシャロンに次のように語っている。「私は夜これらの物を扱うたびに知識を増していったのだ。一回一回、より多くの、ずっとすぐれた知識を、こうして今これらのものをいじっているような具合に、今日まで獲得してきた。(…) 今、歳月がこうして流れて、私はこんな結論に達した。知識とは、実践によって得られるものだ、と。当たりまえのこと、じつに単純なことではないか」。

ここでわかることは、シャーマンのもついろんな呪物の意味は、それといわば生きられた対決をすることによってはじめて開示されてくるものだ、ということである。(…) 呪物の与える「知識」は、つねに意外で、未知性、他者性をおびている。(…) アマゾン上流域のシャーマンの治療歌も、このメサの物品と厳密に相似的な特徴をもっており、それゆえ上のような意味でまさに「呪物(フェティッシュ)」と呼びうるものである。ヤグアの例でみたように、シャーマンの治療歌はきわめて個人的なものであった。そして、アマゾン上流域のシャーマンの治療歌のレパートリーは、ちょうどメサの物品のように、ひとつひとつ獲得されてゆき、シャーマンと特別な関係をもってゆく。

(…) シャーマンの呪物や治療歌を、「象徴」という観点からみると、以上のような意味で、そこに二種類の相異なる意味、相異なる働きをみとめねばならないであろう。ひとつは、コンテクストによって確定する意味や働きで、ペルー海岸のメサの例でいえば、メサの物品のそれぞれは「役割」をもっており、これがこの第一の側面に相当する。これはいえば「考えられた象徴」としての側面(…)である。もうひとつが、いま説明してきた(…)本質的に未知的で、生きられた経験の中にのみ現出してくる、いわば「生きられた象徴」としての側面である。シャーマンの呪物や治療歌は、この二つの面をもってはじめて、その十分な意味と力をもちうるのである。

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(…) 身体を我々の自己(あるいは意識)との関係において考えるとき、そこには大まかにいって二つの関係のあり方があるといてるだろう。ひとつは認識を通じて自己(意識)に統合され、自己(意識)のもとに行動する、いわば「統合的な身体」である。(…) しかしながら、身体にはもうひとつの見落とすことのできない側面がある。それは、自己(意識)にかかわりなく自律的に機能してしまう、いわば「日統合的な身体」である(…)。それは、消化活動や血液循環のようにふつう人間の意識にのぼらない活動をも含んでいるが、意識にとってもっとも典型的には、睡眠、病気、さまざまな生理的快感・不快感、さらに死という形で表れてくる。「非統合的身体」の存在感が大きく感じられるのは、一言でいえば、このように心に反して体が自律的に動いてしまうときである。

(…) たとえば、バラサナ社会の人々は、Heという言葉で私がこれまで<異なる「現実」>と呼んできた状態を表現していたが、この言葉はただ幻覚剤や儀礼や夢だけを通じて実現される状態を示すのではなかった。彼らは、病気や出産、生理、死にともなう危険な状態をも同じHeという言葉で呼んでいたのである。このような状態もまた、自己の意志にかかわらず「非統合的な身体」が現出してきて、自己が自己として存続することが危機にさらされる状態であるといえる。

第5章で言及したヤグアの「破裂した身体」のテーマは、こうしたことを念頭に置いていれば、納得のゆくものとなる。ヤグアのシャーマンは、数度の幻覚経験を含んだイニシエーションの修業の中で、意味にかこまれた人間の世界からいったん切り離され、彼の体は「破裂」して死ぬ。そうした後に、すなわち死んでいてしかも生きている状態になってはじめて、彼はシャーマンの知識=力を獲得し有効に使うことができるとされるのである。身体は破裂することによってその統合性を失い、各部分がもっていたはずの意味を失う。しかしそれでも彼の身体は破裂したまま生きつづける。(…) シャーマニズムとは、「統合的な身体」に対してふだんネガティブな現れ方しかしない「非統合的な身体」のもつ並み外れた力を利用していくテクニックだとは言えないだろうか。

(…) 神経系によって統合された人間の「統合的な身体」とは一体何なのであろうか。こういう問い返しをしてみるとき、オルダス・ハクスレーが紹介している哲学者C・D・ブロードの次のような考え方も、いく分か真理を含んでいるように思えるのである。「ベルグソンが記憶と感覚知覚に関して提唱したような理論を、われわれは今までの傾向をはなれてもっと真剣に考慮した方がよいのではなかろうか。ベルグソンの示唆は、脳や神経系それに感覚器官の機能は主として除去作用的であって生産作用的ではないということである。人間は誰でもまたどの瞬間においても自分の身に生じたことをすべて記憶することができるし、宇宙のすべてのところで生じることすべてを知覚することができる。脳および神経系の機能は、ほとんどが無益で無関係なこの巨大な量の知識のために我々が押し潰され混乱を生まないように守ることであり、放っておくとわれわれが時々刻々に知覚したり記憶したりしてしまうものの大部分を閉め出し、僅かな量の、日常的に有効そうなものだけを特別に選び取って残しておくのである」。
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