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「想起と反復-あるマプーチェの夢語りの分析-」(1993)

2012/04/20 6:33 に Tadashi YANAI が投稿   [ 2012/04/20 6:33 に更新しました ]
(...) この語り[セバスティアン老の「ヘリコプターの夢」の語り]は,一方で様々な時空を自分自身および聞き手の想像のなかに喚起させつつ,他方でそれらを縦断的に反復するものを媒介として,そうした相異なる様々な時空を一つの中心的な時空に関連させてゆく。この中心的な時空こそ,神話的な永遠の世界,神の完全な世界であり,夢や儀礼の中で,わずかに垣間みえる世界にほかならない。セバスティアン老の経験の偉大さは,まさにこの点に関連しているといえるだろう。つまり,1987年のA村のカマリクンにおいて,いけにえの雄牛の心臓を手に持ち,祈りの言葉を述べながら彼が経験したこととは,儀礼を行っている最中の自分の<今・ここ>が,夢の中に現れた兵隊の差し出した心臓を通じて,20数年前の夢の中の時空と融合し,さらにその夢を通じて,夢の中に内包された永遠の世界である青い天界(およびそこで行われているカマリクン)と融合する,という事態であった。一言でいうなら,儀礼の時空と夢の時空と天界の時空とが,セバスティアン老の記憶の働きの中で,瞬時的にせよ,一つのものとなったのである。

(...) このように,セバスティアン老の語りによって引き起こされるものは,ある種の重層的想起であり,全的な反復である。セバスティアン老の語りは,ウインカの物事が充満した現実のA村で暮らしている人々の中に,マプーチェ的なイメージを,身体の運動感覚的なレベル,具象的なレベル,そして存在論的なレベルの三つのレベルにまたがって少しずつ反響させてゆき,増幅させてゆく。そしてその反響は,最後に一つの響きとなって,強力にマプーチェ的なものを肯定するのである。しかし,問題はまだ続く。なぜなら,こうした読みは,この語りの正統的な読み方ではあるが,しかし一つの読み方にすぎないからである。この語りを別な角度から読んで行くならば,逆説的なことに,セバスティアン老の語りによって行われたマプーチェ的な本質の反復は,マプーチェ的なものを強力に訴えると同時に,この語り自体をいわゆるマプーチェの「伝統」の中には収まりきらないものにしているとも言えるのである。ドゥルーズがヒュームを引きつつ言うように,「反復は,反復される対象に,何の変化ももたらさないが,その反復を観照する精神には,何らかの変化をもたらす」。セバスティアン老の語りが,マプーチェ的なものの全的な反復を目指せば目指すほど,そしてそれに成功すれば成功するほど,その反復を眺めるセバスティアン老の精神の内部には,何か新しいものが入り込んでゆく。そして,彼自身は,しだいにマプーチェ的なものから遠ざかってゆくのである。

(...) こうしてセバスティアン老の思考は,伝統の重圧から解放されて,自由に働くことができる。これが,彼の語りのスタイルのもう一つの特徴,すなわち,リアリズムともつながっているのであり,それゆえに彼の語りは民族誌的背景を共有しない者にとってさえ近づきやすいものとなっているのだ。より伝統主義的なマプーチェの同種の語りのように,神話的伝承がそのまま絶対的な真実として引用されるのではなく,ここでは,信仰とは何かというテーマが,一度伝統に由来する諸前提を取り払い,語り手自身が根本的な懐疑を経験した上で,夢の経験と儀礼の経験をへて,信仰へ回帰してゆくという,一種の発展的ドラマとして再構成されている。そうしてゼロから積み上げられているからこそ,伝統は,この語りの中でその全貌を現しているのだ,とも言えるのである。

(...) これが,ある面では伝統を重層的に反復しているセバスティアン老の語りの中で作り出されている差異である。これは,全く新しいものであり,この意味で,セバスティアン老は,新しい信仰の形成者となっているのである。エリアーデは,『創世記』の,ヤーヴェに自らの子イサクをいけにえとして捧げようとしたアブラハムの行為に言及して,アブラハムは習慣の命じるところに従ってその供犠を行おうとしたのではなく,ヤーヴェに対する深い信仰のみに基づいてこれを行おうとしたのであり,それゆえアブラハムのこの行為は,新しい宗教的経験としての,信仰の行為だったのだと論じる。セバスティアン老の経験は,ある点でこのアブラハムの行為に類似したものだといえよう。つまり彼もまた,一度慣習を取り払った上で,新たに伝統を反復しなおすことにより,新しい経験としての信仰を獲得したのである。そしてまさにこの点から,マプーチェ的な伝統の破壊者としてのセバスティアン老の姿が浮かび上がってくる。なぜなら,彼は懐疑から出発して自らの信仰を再構成してしまったがために,マプーチェの伝統のうちで,彼の新しい信仰からみて非合理な部分を,おそれることなく切り捨ててしまうからである。祖先からの神話的伝承全体に忠実で,そうした伝承が定める規則を破ることをおそれる伝統主義的なマプーチェの人々とは対照的に,彼がおそれるのは,夢による神の直接的啓示だけなのだ。

(...) 今日,いまだに多くのマプーチェの人々が,様々なハンディキャップにもめげず,チリ社会への完全な同化を拒否して,マプーチェであり続けようとしていることは,彼らが意識的にそれを選択しているから,ということだけでは説明がつかないように思われる。おそらくそれは,夢や病気,偶然の出来事などの,意識の外にある現象を通じて,依然として彼らの前にマプーチェ的な「真実」が開示され続けているからである。そしてこの「真実」は,セバスティアン老にとってのヘリコプターの夢がそうであったように,ほとんど強制的に人々を自らに従わせる。S.フロイトは,『快感原則の彼岸』において,生のあらゆる原則の彼方にある人間の根源的衝動としての,「以前の状態を回復するという要求」について語っている。ヤバスティアン老たちが,意識外の現象の中にマプーチェ的なものを見いだしつづけている背景には,最も深いレベルにおけるこうした力の作用があるのかも知れない

(...) ただ,ここで問題なのは,今日のマプーチェにとっての「以前の状態」が,いわゆる伝統的なマプーチェ社会の物事だけではなくなってしまったことである。彼らは今や,スペイン語の使用をはじめとして,日常生活のかなりの部分を,チリ社会の論理にしたがって行わざるを得なくなっているし,そうした発話や行動の記憶は,一つの存在のあり方として,彼らの無意識や身体の底にまで根付いてしまっている。それゆえ,相矛盾する「以前の状態」を回復すべく運命づけられた彼らの想起は,必然的に異種混清的なものとならざるを得ず,この異質なものの混汚は,ある時には新たな美しい和音を生み出すとともに,別の時には激しい不協和音となって鳴り響くのである。マプーチェ的なものとウインカ的なものとが奇妙に圧縮された,セバスティアン老の夢の中のヘリコプターは,まさにこうした状況を象徴するものになっているだろう。
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