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4章 人間関係の諸相: 想起・力・水平性

2012/04/20 6:17 に Tadashi YANAI が投稿   [ 2012/04/20 6:17 に更新しました ]
(...) 親族名称は、人間の分類を通じて、人々の社会的実践に枠組を与えるとともに、逆にそれらの実践の中で変化を被ってゆくものである。出来上がった作品(opus operatum)としての親族名称ダイアグラムが与える一義的で平面的な印象とは裏腹に、実際には、同じ対象に対してしばしば複数の名称が存在し、異なる名称は往々にして隠れた意味論的関係によって立体的に相互に結ばれている。親族名称の一部分はある種の社会的実践と関わり合い、別の部分は他の社会的実践と関わって、時には、両者のもつ論理がぶつかりあって、矛盾を露にすることもある。このような観点から見るならば、親族名称体系は、人々の社会関係の様々な側面を浮き彫りにするものである。

(...) ここでは、カラフケン湖西北部地域における社会的人格の構成を、親族名称・個人名・魂という3つのレベルから見てきた。まず、カラフケン湖西北部地域の親族名称体系が、人間を天上界の秩序であるところの直系家族のメタファーによって把握する枠組を与えることに触れ、次に、個人名体系が、人々を、祖先の総体である「同名者(父方祖父)たち」の反復として規定することを論じ、最後に、個人の魂が、男系・女系の系譜を辿りつつ、至高神の決定に従って、祖先の魂の再生として形成されることをみた。しかし、ここまでみたことは、カラフケン湖西北部地域の社会的人格の構成についての考察の第一段階に過ぎない。問題の全体は、広い意味での婚姻の問題を次節で検討してゆくなかで初めて十分に把握できるようになるはずである。

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(...) こうした一連の事実は、確かに、「他者になること」によって現在の存在の条件を乗り越えようとする「食人的コギト」が、婚姻の領域にも関わるものであることを示唆するものであるといえるだろう。実際、個々の家系がそれぞれの祖霊の体系を持っているとすれば、婚姻連盟を結ぶことは、それを通じてこれまで無関係だった祖霊の体系と関係を持つこと、そして潜在的には、それらの祖霊の力を獲得することを意味する。もし食人が、「人間が人間を食べる」という尋常でない行為を通じて超越的な力を獲得しようとする、「鏡を突き抜ける」ような「不可能の技法 (arte do impossivel)」であるとするならば(Viveiros de Castro)、確かに、男女の結合と再生産というある意味で不可解な部分を含んだ、この婚姻という実践にも、同じような「不可能の技法」としての理解を可能にするものが含まれているのかもしれない。

(...) カラフケン湖西北部地域のマプーチェ社会は、既にみたように、親族名称体系が血族化の特徴をもつこと、その母方交叉イトコ婚が双方向的でグローバルなシステムを形成しないものであること、などの点では、V=ジ=カストロとファウストが考察した諸社会にみられる小域的レベルでの強い凝集力を共有しているといえる。しかし他方で、このような類似点にもかかわらず、父方交叉イトコ婚を中心に据えるV=ジ=カストロとファウストのモデルと、母方交叉イトコ婚を強調するマプーチェのシステムにはやはりある程度の隔たりを認めざるをえないだろう。このことを、どのように理解すべきであろうか。

(...) カラフケン湖西北部地域のマプーチェにとっても、生活の安泰に必要なのは霊的能力を備えた子孫を作り出すことであるが、そうした霊的能力は系譜を通じて自動的に伝えられるものではなく、積極的に外に出て新たな婚姻連盟を結ぶことによって得られるものである。おそらく、カラフケン湖西北部地域において、系譜によらない名付けが行われ、また母方交叉イトコ婚に若干のアクセントが置かれるのは、彼らの実践の、このようなより外向的な特徴に基づくものだと考えられる。そして、この内向性と外向性の対比はまた、「想起の原理」と「力の原理」の対比にも対応するものになっているだろう。(...) 内向的な宇宙モデルでは、世界は既に完成されたものであり、人間が行いうることはそれを怠りなく「想起」して反復することだけである。(...) カラフケン湖西北部地域では、一方でそうした考え方を含みつつも、他方では、積極的に外に向かい他者のもつ「力」を獲得してそれを生活の安泰に役立てる、という考え方が存在するのである。 カラフケン湖西北部地域のモデルは、こうして、V=ジ=カストロとファウストの内向性の強いモデルに片足を置きながら、同時に、外部に自らを開いてゆこうとする傾向をも持つものだということになる。ところで、ここで想起されるのは、アマゾニアに典型的に見いだされる小域的レベルでの高度の凝集力は、親族と婚姻の領域を取り囲む領域、すなわち敵対性と外部性の領域がもつ危険性と表裏一体のものであったということである 。(...) なぜカラフケン湖西北部地域においては、婚姻が、ある意味では敵対性・外部性を帯びかねない領域にまでそのネットワークを広げることができるのだろうか。

(...) つまり、広大な地域に分布する首長たちが定期的に顔を合わせ、共同で天上的存在を「想起」するこのアイヤレウェンの実践によって、この地域の社会的空間は、南米低地の他の地域では見られないほど広範囲における平和的交流を可能にするものとなったのである。

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(...) カラフケン湖西北部地域では、ニェンピン[祈り手]とマチ[シャーマン]は明確に異なった存在として理解されており、事例31のようなケースも、基本的にはマチがニェンピンを兼ねた特殊なケースであるとされている。しかし、よく考えるなら、ニェンピン=マチの存在は、(...) 区別が必ずしも確実なものではないことを示すものであると言わざるをえない。(...) 一言で述べるなら、ニェンピンとマチの微妙な関係は、「想起の原理」と「力の原理」の間の微妙な関係と完全に平行的なものである。「想起の原理」に従えば、地上の人間たちはコヌンパンの作用を通じて天上界と直接関係し、天上界の秩序を可能な限りの形で地上で模倣しようとする。そしてこの模倣の媒介となる役目を担うのが、ニェンピンである。これに対して、「力の原理」は、供犠を通じて祖霊と自己同一化することによって、人間が祖霊のもつ超自然的な力を一時的に手に入れることを可能にする。この作業を常時行っている存在が、マチにほかならない。しかし、コスモロジーという観点から見ても、儀礼的実践という観点から見ても、この二つの原理は不可分に結びついており、それゆえにニェンピンとマチの関係もまた、錯綜したものとならざるをえないのである。

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(...)マプーチェのリーダーたちは、「想起の原理」と「力の原理」を拠り所にして、マプーチェ社会の中に垂直性を作り出してゆくのであるが、しかし他方で、この社会には、4.3.1.で述べたように、政治権力の集中を妨げようとする強力な遠心力も常に働いている。

(...) 同一性原理の双方によって生み出されるヒエラルヒー化の傾向を表現しているのが、チェ(che)とクニファル(kunifall)というカテゴリーである。アウグスタの辞書に従えば、前者は「人;裕福な人」、後者は「貧しい 人;哀れな人;孤児」(p.106)となるが、一言で述べるなら、チェが自律的な人間であるのに対して、クニファルとは誰かに面倒を見てもらわねばならない人ということになろう。チェとクニファルの区別は、さまざまな次元でなされうるものである。最も基本的には、世帯内における親(または大人)と子供の区別がそうであり、一応自分で自分の面倒を見れる大人はチェであるのに対して、子供はクニファルである。(...) 今日のカラフケン湖西北部地域でも、チェとして扱われるか否か、というテーマの重要性は変わらない。彼らは、自分が人にチェとみなされているかどうかについて、過剰なほどに敏感であり、過去にクニファル扱いされた苦い思い出(思いこみの場合もしばしばある)は、いつか借りを返すべきものとして、心の奥底に忘れずに持っている。そして、とりわけ宴会などの場で酔いが回ってくると、人々はそうした恨みを思い出す。「あいつはあの時、俺をチェとして扱わなかった」、「ひとを馬鹿にしやがった」などといった呟きから、喧嘩が始まり、そして殺人にまで至るケースも全く稀ではない

(...) 「力の原理」は、一方で、確かに強い者と弱い者、チェとクニファル、或いはロンコ[首長]とコナ(ロンコの従者)という階層差を作り出す働きをもっている。しかし他方で、「霊的存在に供犠を行うことによって超自然的な力を引き出す」ことは、ある範囲までは、貧しい者、クニファルな者にも開かれているのであって、「力の原理」は、超自然的な力を通じて、弱者が強者を思わぬ苦境に陥れることをも可能にするのである。クニファルな者が利用することのできる超自然的手段は、大抵の場合、邪悪な精霊を利用した妖術とか、あるいは毒殺とかいった極めて反社会的なものであるが、しかし、それが超自然的なものである限り、どんな強力なロンコをも負かすことができる可能性がある。

(...) 我々は(...)「想起の原理」が生み出すところの、至高神が人間を造り人間に食べ物を与えた行為を範例とする一連の「親子関係」について述べ、チェの立場にある者が、クニファルという「哀れな人」との間に、非対称的な互酬的関係を営むことを論じた。ヒエラルヒーを造り出しつつ、そこに「寛容さ」や「哀れみ」を要求するこの原理は、それ自体、階層化が進みすぎることがないよう歯止めをかけようとする側面をも持つものである。(...) カマリクンは同時に、様々な水平的・対称的関係が展開される最も重要な場でもある。それはただ、参加者相互の間でヌツァムカンによる言葉の相互的交換が行われるというだけではない。カマリクンの3日間、供犠が終わったあとに繰り広げられる食べ物の相互的贈与は、非常に厳密な均衡的互酬性の関係を維持しようとするものである。万が一、前回に受けた贈与と同等な物をお返しできなければ、それは人々にとって、大変恥ずべきことになる。もちろん、ニェンピンやロンコもこうした水平的なネットワークの中に位置しているのであり、このネットワークにおいては、原理的には、優れた者と劣った者、強者と弱者といった差異は存在しないのである。

(...)ここで、次の、いわば素朴な疑問を立てることができる。二つの同一性原理が垂直性と水平性とを同時に作り出すことは認めるとして、総体としてのマプーチェ社会は、垂直的と捉えるべきなのか、それとも水平的と捉えるべきなのか。(...) サントス=グラネロは、西洋社会では、むしろ不平等性を基調とする現実の社会的実践を、平等主義的イデオロギーが覆っているのに対して、[ペルー・アマゾンの]アムエシャ社会では、不平等的なイデオロギーが、平等主義的な社会的実践を覆っていると考える。ほとんど明白なように、マプーチェ社会の状況は、サントス=グラネロが描写するアムエシャ社会の状況とかなり類似したものである。「想起の原理」と「力の原理」は、イデオロギー的なレベルでは、ヒエラルヒー的な差異化を正当化するものであるが、他方で、そうしたイデオロギーに包摂されたものとしての平等主義的な社会的実践が断固たる形で存在しており、こうした実践は(...)個々の居住単位の自給性の高さという要因によって強力な基盤を与えられている。こうした平等主義的な社会的実践は、筆者の理解によれば、「水平性の原理」とでも呼ぶべき、「マプーチェ的なハビトゥス」の第三の同一性原理に基づくものであると考えることができる。ただし、この同一性原理は、まさにイデオロギーによって包摂された領域に属するものであるがゆえに、行動のレベルでは明確に観察することができても、言説のレベルで見出すことはきわめて困難である。(...)それはただ、4.4.2.でみたように「想起の原理」と「力の原理」の中で間接的な形で表出することによってのみ、ある種の言説として認識されるような、見えにくい同一性原理なのである。

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