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7章 未来への展望~結論

2012/04/20 6:12 に Tadashi YANAI が投稿   [ 2012/04/20 6:12 に更新しました ]
(...) チリの人類学者C・ムニサガは、1960年代初頭、(...)当時大挙して首都サンティアゴに押し寄せ始めたマプーチェ移民の生活ぶりを描写した。そこで彼が、G・バランディエの影響を受けつつ、「移行的」構造と呼んだものは、1990年代のマプーチェ移民たちにとっても依然として意味をもち続けている。ムニサガは、この「移行的」構造を、パーソナルな人間関係と具体的な思考様式が支配する田舎から出てきた先住民たちが、インパーソナルな環境と抽象的な思考様式の支配する都市生活に適応する際の媒介的メカニズムであると規定し、そのいくつかの形態を検討する。(...) 特に注目に値するのは、マプーチェ系住民集中居住地区の空間、そして移民が多く集まる公園や飲み屋、ダンスホールの空間などである。 (...) 実は、それらは単に居留地から都市への移行という意味のみにおいて「移行的」であるのではない。ムニサガは、これらの場所に集まる人々の多くが、一般に、教育程度が低く、若く、そして居留地からサンティアゴに出てきたばかりの人々から構成されていること、そして、より高い教育を受けた人々や、滞在期間の長い人々、あるいは結婚して身を落ちつけた人々は、あまりこうした場所に来ないことを示唆している。これらの場所は、彼らが一生のあいだ通うような場所では決してないのである。

(...) ここで、ムニサガが1960年に刊行したある19歳のマプーチェ勤労学生の手記をみることにしよう。この青年は、カウティン県海岸部の居留地の出身であり、南部の地方都市ヌエバ・インペリアルで初等教育の後半から中等教育の半ばまでを受けたあと、サンティアゴにやって来て、師範学校への入学を目指して働きながら夜間高校に通う学生であった。(...) 彼はこのように、一連の新たな「理解」あるいは「自覚」の経験を通じて、物事を知性化して理解する習慣を獲得するとともに、たえず進歩を遂げて未来を切り開いてゆくという、近代的で都市的な精神を身につけてゆく。しかし、彼はそのことで、マプーチェ的な世界とのつながりを失ってしまうわけではない。彼は、自分の結婚の相手は「私の階層の理想の女性」であって、マプーチェでなければならないと考える。「他の道(つまりマプーチェ以外の女性と結婚すること)もまた開かれているが、それは私が通ることができない、なじみのない道である。私はそうした人に信頼感をもつことができないし、何よりその人の私生活を知ることができない」。彼の夢は、「わがマプーチェ民族に完全な教育を導入すること、私が所属する村の中に、知の輝ける道の新しいルートを開くこと」である。「私は、自分の考える新しい方法に基づいて、ある文化的計画を広く発展させることになるだろう」。ここで、ムニサガが正しく指摘するように、この青年がマプーチェという民族と自らの村に対して抱いている強い帰属意識が、それ自体高度に知性化されたものであることは注目に値する。マプーチェの女性を結婚相手と決めていることにしても、彼は、一度他の可能性を考え、その問題点を彼なりに把握した上で、そうした結論に至るのである。つまり、彼の「マプーチェ」としての自己意識は、あくまでも、一度都市的な精神性を経由した上で再構成されたものだということができる。

この青年の思考様式に類似したものは、多くの教育あるマプーチェの若者たちの間に見出すことができる。そして、こうした人々は、「マプーチェ」(...) としての強い自己意識に基づいて、都市を舞台とした、政治的あるいは文化的な目的をもったマプーチェ民族組織の活動に、積極的に参加してゆくのである。しかし他方で、都市に出てきた全てのマプーチェがこのような思考様式に至るのではもちろんない。ムニサガは、1961年の論文で、こうした民族組織の中核を担ってゆく知識層のマプーチェと、キンタ・ノルマル公園や飲み屋、ダンスホールに好んで通うタイプのマプーチェたちとの間には、明らかに大きな落差があり、後者のマプーチェたちが民族運動に加わっても、両者の間のコミュニケーションには重大な問題が生じていること、民族運動の担い手たちが「大衆の無理解」を嘆いていることを指摘している。そして時には、まだ伝統的な精神性を強く保持しているこうした下層のマプーチェたちよりも、むしろ都市的な精神性を身につけた知識層のマプーチェのほうがより深い孤立感に苛まれるという皮肉な事態も生じてくることになるのである。

(...) 1960年代の初頭にムニサガが見出した「移行的」メカニズムは、現在も顕在的・潜在的な様々な形で、依然機能し続けているであろう。しかし、都市に住むマプーチェの人々が今日、全体として、かつてよりもはるかに都市化した精神性を備えるようになってきていることも事実なのである。こうしたことは、他方で、先にみたようなマプーチェの民族組織における知識層と大衆層の分離が、かつてほど深刻なものでなくなってきていることをも意味するはずである。事実、モンテシーノが指摘するように、今日のマプーチェの民族組織は、しばしば、労働者層のマプーチェ(もちろんそのごく一部に過ぎないであろうが)にとっても重要な精神的支柱となり、またそうした人々の積極的な参加によって支えられるようにもなってきている。そしてそのような中で、彼らが、都市的な精神性の中で、マプーチェ的な伝統を再創造するというような可能性も、確実に生まれてきているのである。

(...) 1989年3月、サンティアゴのマプーチェ民族組織の一つは、初めて、首都のマプーチェ移民たちを中心的な参加者として、市内の一角でニヤトゥン儀礼を行った。これに参加したマプーチェ女性G・リェンピの記録は、サンティアゴに住むマプーチェたちが今日、いかなる形で自らの伝統を捉えているかを鮮やかに示してくれる。(..) ここで、7.1.1.2.で引いたジンメルの言葉を思い起こしておくのは、たぶん無駄ではないだろう。「近代一般の本質は心理主義であって、それは (・・・) 実際は内的世界として世界を体験し解釈するのであり、堅固な内容を魂の流動的な諸要素へ解体する」。首都サンティアゴでのリェンピのニヤトゥンの体験は、そのきわめて重要な部分において、彼女の内的世界における自らの伝統の体験であり、解釈である。そして、居留地でのニヤトゥン儀礼のもつ堅固な具体的規則(例えば儀礼場は他の用途をもってはならないこと)は、そこでは、魂の流動的な諸要素の中に溶解している。このニヤトゥン儀礼をこうした形で体験した人は、もちろん彼女だけではなかっただろう。その意味で、このニヤトゥン儀礼は、正確にいうならば、伝統的な儀礼の近代的な再創造としての意味を強く持ったものであったということができるだろう。

(...) しかし、こうした大都会におけるニヤトゥン儀礼の経験が、マプーチェ移民たちにとって完全に内面化された経験となっていると考えるのは、少し早計である。都会での第二世代はともかくとして、少なくとも居留地で生まれ育ったマプーチェたちは、たとえ長い間都市生活を続けていたとしても、その身体的記憶の奥底に依然として「マプーチェ的なハビトゥス」や「中間的なハビトゥス」を眠らせているのであって、そうした埋もれたハビトゥスが、何らかの機会に再活性化してくるということは大いにありうることである。

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(…) 7.2.2.では、4人のマプーチェ民族運動の指導者の言動を検討しながら、主に都市を基盤として運動を繰り広げた彼らが、彼らの内外に展開する「マプーチェ的なハビトゥス」(及び「中間的なハビトゥス」)と「チリ的なハビトゥス」とをいかにエラボレートして、思索と行動とに結晶化していったかをみた。それらは、この論文の枠組に沿って言うならば、本質的に異種混淆的な状況の中で、現在の社会的状況を脱し(つまり現在において支配的な精神的反復のパターンを脱して)、未来への新たな方向性を見出そうと試みる、今世紀のマプーチェの人々による存在論的反復のいくつかの表出であるということができるであろう。

(…) さて、マンキレフ、アブルト、コニュエパン、パイネマルの4人による未来のマプーチェに向けてのヴィジョンは、全体として、「マプーチェ的なもの」と「チリ的なもの」とが形成しうる異種混淆的な関係についての、一つのきわめて示唆的な構図を描き出している。民族運動の第一世代に属するマンキレフとアブルトに共通するのは、両者のうちの一方を高度に強調する傾向である。マンキレフは、「チリ的なもの」への完全な同化を目指し、その思考の枠組に基づいて、断絶された過去としての「マプーチェ的なもの」を分析した。アブルトにおいては、両者の間のより生産的な対話がなされているが、彼が最終的に向かうところはきわめてマプーチェ的な世界であって、「チリ的なもの」については、その様々な要素が断片的に接ぎ木されているという印象を否めない。これに対して、第二世代のコニュエパンとパイネマルにおいては、「マプーチェ的なもの」と「チリ的なもの」の間の、より混淆した関係がみられる。行動の人コニュエパンは、マプーチェ的な伝統とチリ的な教養の双方に精通し、双方を十二分に駆使したが、それらは彼の中で一つの首尾一貫した思想体系を構成せず、むしろ様々な矛盾をはらみながら共存していた。他方、パイネマルにおいては、「マプーチェ的なもの」と「チリ的なもの」との独自な融合が見られたが、それはこの両者を、それぞれかなり自分流に変形した上で作り上げられたものであった。

(…) 彼らの時代からさらに多くの年月が経過した今日、少なくとも幾人かのマプーチェたちは、もし筆者の理解が正しいなら、それぞれのやり方で、4人の民族運動家たちよりもさらに遠くに行くことに成功している。そうした新しい実践の一端として、二人のマプーチェ出身の神父による神学的考察と、ある若きマプーチェの詩人の作品とを、次に検討することにしよう。一言で述べるなら、これらの新世代の人々をかつての指導者たちから区別しているのは、彼らが「チリ的なハビトゥス」をはるかに深く、そして杓子定規でない形で把握し、そうした角度から「マプーチェ的なハビトゥス」との新たな関係の可能性を模索しているということである。

(…) マプーチェとして初のカプチン会士になったアルカマン神父は、1956年に叙階されており、(…)マプーチェの人々の間で司牧活動に加わるうちに、マプーチェの文化、とりわけその宗教性について、真正面から考える必要を痛感するようになった。アルカマン神父は、そうした理由から、バルディビア市のアウストラル大学で人類学を勉強し、「マプーチェの考えを理解するには、自分の今までの考えを全て忘れて、白紙の状態から出発しなければならない」ことを学んだ、という。(…) アルカマン神父は、マプーチェに対する神の啓示とは、現在のマプーチェ文化を踏まえ、それをさらに一歩深い宗教性に向かって導くような形で与えられるはずのものだと考える。

「マプーチェが、伝統によって構造化され強化されているところの文化的枠組を脱することは、自己の消滅という重大な危険を冒さない限り、不可能である。(・・・) 真に力強く効果的な福音伝道は、マプーチェ文化の創造的効力(vigencia creativa)を尊重し、促進するものでなければならない。なぜなら、それは人間の社会的・精神的本性そのものから発露するものだからである。教会が問題とすべきなのは、飾り付けのような、うわべだけを塗る形ではなくて、深く、根本のところから、決定的な形で、人間の諸文化に福音を与えることである。神の啓示が、マプーチェ文化の最深部とその宇宙論的認識とをはっきりと照らし出し、福音の言葉が、歴史の現時点において、歪曲されることなく、そしてまるごと、マプーチェに対して問いかけられなければならない」。「福音伝道とは、神への信仰の種をマプーチェ文化の中に少しずつ蒔いてゆく過程だということができるだろう。それは、マプーチェ文化を、その文化的要素の選択的同化(asimilacion selectiva)を通して受け継ぐべきであり、その時、神の言葉の種は、神そのものの終末論的表現を伴い、そして活力と問いかけとを与えるような、一つの力となるであろう」。こうしたアルカマン神父たちの考察を、「中間的ハビトゥス」の宇宙論的イメージや、M・パイネマルの宗教観念と比較してみるならば、その相違は明らかだろう。アルカマン神父たちは、キリスト教とマプーチェ文化の表面的な混合を行うのではなく、両者を全体として尊重したうえで、それぞれの最も根源的な宗教的経験の次元にまで立ち戻ることによって、新しい形で、両者の対話を作りだそうとしているのである。

(…) この詩[若きマプーチェの詩人レオネル・リエンラフの詩「子供」]のマプーチェ的な部分を解説しておこう。(…) "trayenko"(滝の水、あるいは水煙)は、そうした精霊や祖霊とコミュニケートするための媒体であると考えられる。そのような意味をこめて第一連の最初の二行を読むならば、そこで暗に語られているのが、霊的存在たちとの再会の経験であり、それは、伝統的な宇宙や祖先とのつながりの回復、都市に住み学校で勉強している間に次第に失いかけていたマプーチェとしての自己の回復の経験であることを理解できるだろう。[また最後の三行のキーワードである] "pewma" は、夢のほか、幻覚やシャーマンのトランスなど、一般にマプーチェ的思考が霊的存在との交渉として理解するところの、無意識の活動全体を指す言葉であり、ここで述べられているリエンラフの夢の世界との再会は、マプーチェ的思考の深遠な世界とのつながりの回復にほかならないのである。しかし他方で、「つながりの回復」について語るということ自体、リエンラフが、純粋にマプーチェ的な観点からではなく、一度近代的あるいはチリ的な経験の構造を経由した地点からこの詩を書いていることを示している。そして、そのような彼のチリ的、近代的な感受性が見事に発揮されているのが、詩の中心部分を占める「今日/(…)/いつも水浴びをしていたところへ」のところであるだろう。ここで語られている詩的内容は、もはや、謎めいたマプーチェの霊的世界との再会ではない。それは、近代社会に住む人々の誰もが身に覚えがあるところの、幼児期の経験や自然とのノスタルジーに溢れた再会の経験であり、それは、読者が自ら記憶している類似した経験と、即座に、美しく反響してゆくのである。(…) この詩では、最初の二行と最後の三行においてマプーチェ的な経験の構造に基づいた再会の経験が語られ、中心部分でより普遍的な再会の経験が語られる。おそらくこの詩の精妙さは、この二つの詩的内容が、両者の共通項である幼児期の経験との再会というテーマを媒介にして相互に反響しあい、一つの新しい響きを生み出していることだといえるだろう。

(…)アルカマン神父たちの神学やリエンラフの詩における「マプーチェ的なもの」との関係の仕方は、文化という観点からみても、我々にきわめて興味深い問題を提示するものである。一言でいうなら、彼らは、「マプーチェ文化」について、それを自己完結した一つのシステムとしては捉えていない。彼らはむしろ、自らの文化に内包されている創造的なもの、発展的なものを引きだしてゆこうとするのである。(…) そして、彼らのこのような態度が、「マプーチェ文化」に対してのみならず、「チリ文化」に対しても同様に向けられていることも、見逃してはならないだろう。アルカマン神父たちは、キリスト教がもたらした遺産を新たな視点から再検討し、かなりの部分自己完結的な習慣の体系と化してしまったキリスト教的実践を、マプーチェ的な宗教性と対話させることを通じて、より根本的な宗教的経験に到達しようとする。またリエンラフは、例えば、詩「子供」において、近代的なノスタルジーの経験を、マプーチェ的な霊的世界への回帰の経験と重ね合わせることによって、その経験に、新しく、そしてより深い意味を盛り込もうとするのである。

(…) 筆者の理解によれば、こうした彼らの文化に対する関わり方は、人類学における文化概念よりも、ニーチェが考えていた文化(Cultur/Kultur)の概念にはるかに近づくものである。ニーチェは、『哲学者の書』で、「或る民族の文化というものは、この民族のもつ諸衝動の統一的な制御の中に、顕示されるものである」、「文化の目標は、地上の幸福を越え出た方向を指し示している。偉大なる諸々の作品の産出ということが、文化の目標なのである」と書き、また『反時代的考察』の中で、文化が我々に差し向ける仕事とは、「我々の内部あるいは周囲に、哲学者・芸術家・聖人の誕生を準備し、そうすることで自然がより完全なものになるために尽力すること」であると述べている。そして、次のドゥルーズの解説は、このニーチェにとっての文化が、人間に対してどのように機能するものであるかを簡明に要約するものである。「文化とは、ニーチェによれば、本質的に訓育(dressage)であり、選択(selection)である。それは、思考をわがものとしてそこから何か能動的なもの、肯定的なものを作り出すような力の、暴力のことである。(・・・) 文化とは、(・・・) 思考する人の無意識全体を作動させるような訓育のことである」。つまり、ニーチェ(及びドゥルーズ)にとっての文化とは、根本的に生成的あるいは創造的なものであって、人間は、こうした意味での文化と適切な形で向かい合うならば、そこに内在する力によって自らの精神と身体とをまるごと稼働させられ、自らのうちの価値の高いものを選択され鍛え上げられて、新しいものを産み出すことになるのである。ここで、アルカマン神父が述べていた「文化的要素の選択的同化」という言葉を思い出してもよいだろう。それは、キリスト教とマプーチェ的宗教性とが内包する「能動的なもの、肯定的なものを作り出すような力」にマプーチェ的な文化的遺産を触れさせることによって、真に重要なもの、ニーチェ流にいえば「偉大なる」ものを残してゆこうとすることであると考えられる。

ここにおいて我々は、この論文の最初に立てた問いに戻りつつあるといえるかもしれない。1.1.1.で筆者は、今日の世界の絶え間ない生成の状況を念頭に置きつつ、「文化」の概念に関する根本的な問いかけを行い、何よりもこの概念の中に自己生成的な力を回復する必要があることを論じた。しかし、この問題はもちろん、人類学者にとっての学問的問題である以前に、今日の世界を生きている人々自身の問題でもある。そして、アルカマン神父やリエンラフを始めとする幾人かのマプーチェたちは、彼らのものでもあるところの今日の世界の絶え間ない生成の状況の中で、この、自らの文化を生成的に捉え直すという課題に取り組み、そうした中で、彼らの新しい神学的あるいは詩的実践を産み出したのである。

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7.2.3.4.では、マプーチェの人々の中から今日産み出されつつある新しい神学や詩を検討しながら、ニーチェの生成的な文化概念にまでたどり着いた。しかしここで、この文化概念を、人類学がこれまで受け継いできた文化の概念とどのように関連づけたらよいのか、という疑問が浮かんでくる。この点について考えるための出発点として、ニーチェ自身が『反時代的考察』で行っている考察をとりあげることにしよう。

(…) ニーチェは、この本の中で、彼のいう「文化」の新しい原理を理解する者は、十字路に立つことになると述べている。なぜなら、ニーチェによれば、多くの人々は、(…)文化を「良き秩序のもとに自分を位置づけ、先へと進ませてくれる制度及び法則」として理解し、新しい目標のもとに「達成すべき仕事」に対しては反発して、それらの人々を排斥しようとすることになる。ところで、ここでいう新しい目標のもとに「達成すべき仕事」とは(…)「我々の内部あるいは周囲に、哲学者・芸術家・聖人の誕生を準備し、そうすることで自然がより完全なものになるために尽力すること」なのであるが、ニーチェによれば、それは必ずしも「天才」のみが行う孤独な仕事なのではない。「二級、三級の才能の持ち主の中にも、こうした共同作業に適性をもち、こうした使命への献身の中に人生における仕事、目的、意味をようやく見つけたという感情を持つ人々がたくさんいる」のであって、こうした人々は、もう一つのグループの人々が仕掛けてくる攻撃に対して、団結して身を守らなければならないのである。

(…) 一方で、ニーチェのいう「良き秩序のもとに自分を位置づけ、先へと進ませてくれる制度及び法則」としての文化とは、社会の中に一定の精神的反復の片寄りを作り出すところの「法則の静かな国」にほかならない。それは、様々なメカニズムを通じて現実に柔軟に対応しつつ、自己の同一性を維持してゆこうとする働きをもつものである。他方で、ニーチェにとっての「文化の新しい概念」とは、こうした「法則の静かな国」から脱する存在論的反復を促す力となるものであると考えられる。そして、ニーチェの考えのきわめて興味深い点は、そうした存在論的反復を促す根源的な力が、天から降りてくるのではなくて、「文化」という形で、この論文の枠組に従って言うなら、表面上保守的な「法則の静かな国」の内部に潜んでいると考えることにある。

(…) しかしそれでは、そうした「法則の静かな国」の内部に隠れている「文化」とは、いかなる局面において、そしていかなる形で、その創造的な力を発揮するのであろうか。もし筆者の理解が正しいなら、おそらく「法則の静かな国」のイデオロギーが揺さぶられ、それをふだん律している価値体系が無化された場面において、そこに内包されていた「文化」が、存在論的反復の実現を促すような「力=可能性」を秘めたものとして現出してくるのだと考えられる。「文化」の様々な要素は、そこで、モネの最初の睡蓮のように、あるいはバスティーユ襲撃のように、後の数知れない反復を予告する「力=可能性」を持って、立ち現れてくるのである。ただし、「文化」の諸要素がこうした局面において帯びる「力=可能性」をうまく捉えるためには、かなりの精神的努力が必要であることも事実である。既にみたようにベンヤミンは、「歴史哲学テーゼ」において、「過去の真のイメージは、ちらりとしかあらわれぬ。一回かぎり、さっとひらめくイメージとしてしか過去は捉えられない。認識を可能とする瞬間をのがしたら、もうおしまいなのだ」と述べていたが、もしこの文章の「過去」という言葉を、ニーチェの意味での「文化」という言葉に置き換えたとしても、おそらく、ベンヤミンにとってもニーチェにとっても不都合なことにはならないだろう。存在論的反復とは、一言で言えば、「文化」への「狙いをさだめた跳躍」なのである。

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ニーチェは、『人間的、あまりに人間的』の最初の断章で、彼以前のほとんどの哲学が当てはまるような「形而上学的哲学」と、彼が新たに提起する「歴史的哲学」とを区別し、前者がつねに様々な「反対物」についての議論であったのに対し、後者は、そのような「反対物」が見かけの上でしか存在しないことを示すものであるとしている。少し長くなるが、このきわめて重要な部分を引用しよう。「哲学上の諸問題は、今またほとんどあらゆる点で二千年以前と同じ問いの形式をとっている、いかにして或るものがその反対物から生じうるか、たとえば、理性的なものが理性のないものから、感覚のあるものが死せるものから、論理が非論理から、(・・・) いかにして生じうるか? 形而上学的哲学は、これまで、一方から他方が生じることを否定し、一段高い価値をつけられている事物に対しては『物自体』の核心や本質から直接でてくるという奇蹟的起源を容認することで、この困難から身を脱してきた。それに反して、(・・・) 歴史的哲学は、通俗的または形而上学的見解によくある誇張において以外には反対物などないということ、そして理性の誤謬もこうした対立化にもとづいていることを、個々の場合にわたって調査した(そして多分かかることがあらゆる場合にこの哲学の結論となるであろう)、(・・・) -我々が必要としているような、そして現代の高さの個別科学ではじめてわれわれに与えられうるようなものはすべて、道徳的・宗教的・美学的表象と感覚との化学、同様に文化や社会の大なり小なりの交流のなかで、それどころか孤独の中で、身にしみて体験するようなあらゆるあの感動の化学である(・・・)。人類は由来や始源に関する問いを意識からうち払うのを好む、反対の傾向をみずからのうちに感じるには、ほとんど人間ばなれしていなくてはならないのではなかろうか?」。筆者の考えでは、ニーチェのこの文章は、民族誌の実践が今日果たしうる役割の二つの側面を正当化するものである。

一方で、「反対物」に基づいて思考するということ、これは、上でニーチェが「通俗的または形而上学的見解によくある誇張において以外には反対物などないということ」と述べているように、学問的レベルのみならず、社会的通念(あるいはイデオロギー)のレベルにおいても見られるものである。それはマプーチェ社会においても同じであり、人々は、「想起/力/水平性」、「マプーチェ/ウインカ」、「居留地/都市」といった様々な反対物を想定しながら、思考し、行動している。それゆえ、そのような状況が人間的現実の一部である以上は、こうした一連の反対物を民族誌的記述の中で再構築するという作業はそれなりに意味のあるものだと考えられる。

しかし他方で、ニーチェは、そうした反対物が「よくある誇張」においてのみ存在するものであり、「由来や起源」、つまり、個々の物が生成してくる源を探るならば、そこでは、それまで反対物とみえていたものが「感動の化学」として「身にしみて体験」されてくると述べている。ニーチェがこの「感動の化学」を、「文化や社会の大なり小なりの交流のなかで」体験されるものであると述べている以上、この考察を民族誌的現実の問題に適用することは、十分に正当化されるはずである。このようなニーチェの考え方に従えば、例えば、「想起/力/水平性」、「マプーチェ/ウインカ」、「居留地/都市」、あるいは「伝統/近代」、といった様々な対立もまた、誇張の中で存在するものに過ぎないはずであり、もし「由来や起源」にまで遡って思考してゆくならば、別の言葉で言えば、もしそれらをニーチェ的な意味での「文化」として捉えようとするならば、そこには、様々に対立するものが溶けあい、そこから新しいものが生まれてくるような、「感動の化学」が現れてくるはずである。こうして見れば、「マプーチェ的なもの」と「チリ的なもの」とを深いレベルから同時に再創造しようとする、アルカマン神父やリエンラフたちが目指していたのは、まさにそのような意味での「感動の化学」であったと考えることができる。(…)

このことを、より一般的な形で述べ直すなら、次のようにいえるだろう。一定のイデオロギーのもとで整序された身体的=物質的反復と精神的反復が形成するところの「法則の静かな国」は、あたかも自ら「『物自体』の核心や本質」を所持するかのごとくに存在し、他の「法則の静かな国」と対立関係を営むのであるが、しかしそうした構図は、もし生成的現実そのものに即して捉え直すならば(ただしそれは「ほとんど人間ばなれしていなくてはならない」ほどの精神的努力を必要とする作業であるが)、誇張の上で存在するものに過ぎないことがほの見えてくる。存在論的反復の次元においては、一言でいえば、一つの反復は他の反復の反復であって、それらは生成的現実の創造的な力の中で混じり合うのである。しかし、もちろん、こうした反対物の融合はふだん、現実の中で一つの可能性として潜在しているに過ぎず、人々の生活のほとんどの部分は、相矛盾する「法則の静かな国」の共存の中で営まれている。その結果、一連の対立関係は、きわめてしばしば、あたかも決して解消しえない絶対的矛盾のように人々の目に映るのである。

さて、このように考えるなら、民族誌とは、社会文化的現実における様々な反対物を、その生成的な可能性を含む形で記述し、そうした反対物の「由来や起源」を想起させることによって、最終的に何らかの「感動の化学」を与えるような、まさに「現代の高さの個別科学」の一つとしての役割を果たしうる実践なのではないだろうか。そして、もし民族誌が、このような、いわば「歴史的哲学」としての目標をもつならば、それは、もはや失われゆく社会文化的実践の体系のメランコリックな記述を完全に脱して、未来に向かって過去を活発に想起することを促すような、きわめて今日的な学問的実践として生まれかわることができるのではないだろうか。ニーチェは、「文化の医者としての哲学者」と題された草稿の中で、「破壊さるべきものがたくさん存在する場合に、すなわち、渾沌の時代とかあるいは退化の時代とかに」、哲学者は最も有効であると述べている。実際、様々な文化が渾沌として混じり合い、「由来や起源」にまで遡って思考することがますます困難になっている今日の状況において、「歴史的哲学」の一端を担う者としての民族誌家の果たすべき役割は、ますます増大しているとさえ考えられるのではないだろうか。

この論文は、マプーチェ的「想起」の実践を主軸とする「マプーチェ的なハビトゥス」の詳細な民族誌的検討から始まり、「反復」に関する様々な理論的・民族誌的議論を経由して、そして最後に、民族誌の作業そのものを、一連の反対物の「由来や起源」にまで遡って思考するという意味での、深い想起の作業として規定することになった。一言でいうなら、反復の概念を媒介としつつ、今日のマプーチェ社会における文化的生成の様々な可能性を、活発に想起するような記述を行うこと、それが、この論文の記述を導いてきた方針であり、そして同時に、論文の記述を通じて、筆者がその意義を主張しようとしたことである。
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