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「マプーチェ社会における口頭性」(2000[1997])

2012/04/20 6:02 に Tadashi YANAI が投稿   [ 2012/04/20 6:05 に更新しました ]
  • (...) ソクラテス=プラトンによる口頭的心性の批判を、マプーチェの事例とつきあわせてみるのはなかなか興味深いことである。というのは、ソクラテスの企てとは、ある意味で、先に指摘したマプーチェの口頭伝承に関する五つの特徴のそれぞれを攻撃するものに他ならない、ということができるからである。つまり、彼は、直接話法を間接話法に直させ、感情的同一化を廃し、オートマティスムに向かいがちな語り手をたえずストップさせ、語りの一語一句の内容を調べることによって、「既知のもの」の彼方にいくことを目指したのであった。ところで、ここで同時に指摘したいのは、このソクラテスとマプーチェたちの想像上の対面は、どこか人類学者とインフォーマントの関係を思い起こさせるところがある、ということである。口頭的心性を生きるマプーチェのインフォーマントを前に、人類学者はしばしば、相手の語りをストップさせ、発言を一語一語調べ、客観的な情報、正確な情報を獲得しようと努力しつつ、知らず知らずのうちにソクラテスの役を演じてきた。人類学者の目的が、「詩人」たちを相手に真理の闘争を行なっていたソクラテスとは異なって、むしろ口頭的心性を生きる他者を理解することにあるとすれば、これはいささか皮肉な状況である。
  • (...) これらのフランシスカとアントニオの事例[どちらも夢の中で本人が必要としていた知識を与えられる夢]は、その社会文化的背景を考慮するなら、まったく不思議なことではない、ということができる。というのは、マプーチェ社会の口頭的性格からいって、どちらの事例もおそらく、彼らがすでに口頭的な形で(たとえば口頭伝承の一部として)ほとんど無意識のうちに身につけていた知識が、夢の中で具体的なイメージと化して現れたものにほかならない、と考えられるからである。(...) そこで述べたように、マプーチェの「会話」は、現在の必要という基準にもとづいて引用された口頭伝承の連鎖、と考えることができる。実は、夢で起こることは、これとほとんど同一のことなのである。つまり、夢を見ている人は、現在の必要という基準にもとづいて(フランシスカの場合は薬草の知識、アントニオの場合は儀礼のための知識)、口頭伝承に含まれた必要な知識を想起し、これを夢の形で具体化した、と考えられる。ここで、マプーチェの「会話」が、半ば無意識的=自動的(あるいは自己催眠的)な状態で行なわれることを思い起こすなら、「会話」と夢見の類似性はさらに明白になるだろう。
  • (...) マプーチェの人々にとって、夢を通じて得られる知識が、夢を見た個人がすでに身につけていた口頭伝承に由来するものであるか否か、などという問題は、どうでもいいことだといえる。彼らにとって重要なのは、すべての真理は、最初から、つまり世界と人間とが生まれた瞬間から存在していたことを理解することであって、だから、彼らにとって、知識は、「想起」(konumpan)としてしか存在しえない。「夢」を表わすマプーチェ語、ペウマ(peuma)の語源は、こうした彼らの思考様式を見事に表現している。ペウマとは、「すでに見たもの」を意味するのである。ここで、「想起」(konumpan)をめぐるマプーチェ的思考と、プラトンの想起説の間の興味深い類似性に言及しておくのは、無意味ではないだろう。マプーチェの人々にとってと同様、プラトンにとって、あらゆる真理は原初から存在するものであり、そして、彼にとって不死の存在であるところの人間の魂は、最初から真実を知っている存在であった。だから、プラトンにとっても、知識はただ「想起」(anamnesis)としてのみ存在しうるものだったのである。類似しているのはこの点だけではない。例えば、プラトンにとって真実の想起の出発点であったところの「驚き」は、(...) マプーチェ的な真実の「想起」のプロセスにおいてもやはり存在している(ただし、マプーチェ的な「想起」の場合、「驚き」は知識に先立つのではなく、「知識」の後にくる、という意味深い差異も存在している)。さらに、ギリシア語のイデアという言葉が、本来「見られたもの」を意味するものであることも付け加えておいてよいだろう。もちろん、マプーチェの「想起」(konumpan)とプラトンの想起(anamnesis)との間に、真実に到達する経路に関して決定的な相違が存在することも、忘れてはならないだろう。マプーチェの場合、それは、夢見や自動性(オートマティスム)のような無意識的プロセスを通してであるが、プラトン主義においては、(プラトンの意味での)「ロゴス」を経由してであって、それはまさに無意識的過程を排除することによってはじめて成し遂げられるのである。
  • (...) マプーチェの人々にとって、夢とは、知識の源泉だけではなく、行為のための推進力にもなるものである。フランシスカもアントニオも、夢のあと、しかるべき行動をとった。フランシスカは夢で教えられた通りに薬草を探しにいき、アントニオは、夢を見てから三カ月後、村で開かれたカマリクン儀礼の中で、夢の中で教えられた通りに祈り手の役目をつとめた。ここで、マプーチェの人々にとって、夢の中のメッセージが深く真実性を含んだものであることを考慮するなら、こうして夢に促されて行なう行動こそが、彼らにとって、あらゆる可能な行動の様式のなかでもっとも「真なる」行動である、と考えることができる。それは、いうなれば、神の意志にもっとも忠実な行動の様式なのである。
  • (...) 少なくともマプーチェのケースに関する限り、口頭性とは、単に知識や情報を伝達する仕方にとどまるものではなく、ある独特の世界と人生の理解の仕方、ある独特の超個人的な無意識=身体のあり方をも意味するものであって、この口頭的な思考と存在の様式は、プラトン主義、あるいは、近代的主体性に基づいたどんな哲学にも少しも劣らない、独自の深みを持ったものでありうるのである。
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