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「文化人類学が変わる」(1998[1996])

2012/04/20 6:01 に Tadashi YANAI が投稿   [ 2012/04/20 6:04 に更新しました ]
(...) 映画、精神分析、人類学的フィールドワークがほぼ同じ時期に誕生したことは、おそらく単なる歴史的偶然ではないと思われる。というのは、この三者は、「日常的な現実の外にある世界と、何らかの一貫した形で正面から向き合うことを主眼とする」、という点でよ く似ているからである。(...) 人類学的フィールドワークは、異なる文化を生きる人々の現実を、旅行者が写真をとるような外面的かつ断片的なやり方ではなく、できる限り彼ら自身の内面に接近しながら、自律性をもった全体として把握することを目指す。このために人類学者は、フィールド ワークの期間中、現地の人々と生活を共にし、自らの生身をもって彼らとかかわりあってゆくのである。映画・精神分析・人類学的フィールドワークの向き合う 現実は、どれも、近代的な意味での「自己」に対しての「他なるもの」(いわば近代的自己の「夜の部分」)の空間である。フィールドワークの「フィールド (場)」という、いくぶんロマンティックな響きをもつ言葉は、こうした、ある空間的広がりをもつ「他なるもの」の性質をよく表現している。(...) ここで、フランスの 哲学者M・フーコーが、『言葉と物』の中で、人類学(民族学)と精神分析を、人間諸科学(心理学・社会学・文学神話研究など)に対する「反=科学」として 位置づけていたことが思い起こされる。フーコーによれば、十九世紀ヨーロッパに形成された「人間」諸科学は、普遍的真理を標榜するにもかかわらず、実際に は、ごく危うい「人間」の概念(近代的「自己」の概念といってもよい)を基盤にして構築された、疑似科学にすぎないものだった(...) 。このような人間諸科学に対し、「反=科学」たる人類学と精神分析は、「他なるもの」の世界、近代的主体にとっての「夜の部分」に正面から 立ち向かい、これらの疑似科学が主張する「普遍的真理」の相対性を明るみに出してゆく。

(...) この「反=科学」的実践の意味をよりよく理解するためには、人類学と同年輩でしかも誰にとってもなじみの深い、映画と比べてみるとよいかもしれない。暗闇 の中に映し出される映画を見ながら、私たちは、知らず知らずのうちに、スクリーンの向こうの世界と自分の生きる世界とを交錯させてゆき、そうした中で、自 分がふだん周囲の世界と関わってゆく姿勢に一種のゆさぶりをかけている。印象深い映画であればあるほど、そうした「ゆさぶり」の経験は、映画を見たあと、 意識するにせよしないにせよ、自らのものの見方に影響を与えてゆくだろう。同様に、人類学者の場合、フィールドにあまりにも長い期間(典型的には一~二年 以上)滞在するがために、現地に住む人々の身体的=文化的習慣が人類学者の無意識のレベルにまでしだいに浸透して、その内面は大きな「ゆさぶり」をうけ る。そして、人類学者が調査者としてフィールドに持ち込んだ一連の学問的枠組みは、こうした「ゆさぶり」の中で再検討を余儀なくされることになる。人類学 者が調査の後に書く著作は、一定の学問的枠組み内での貢献であるとともに、こうしたフィールドでの「ゆさぶり」の経験(それは学問的枠組み自体が受けた 「ゆさぶり」でもある)の余韻を確実にとどめたものになる。そしてそのことがおそらく、優れた人類学的著作を、骨格となる理論的枠組みが古びてしまった後 も失われない価値をもつものにするのである。人類学が文学でないことは明白だが、にもかかわらず人類学の古典的諸著作(マリノフスキーの『西太平洋の遠洋 航海者』、レヴィ=ストロースの『悲しき熱帯』など)が陰に陽に文学的要素を含んできたことは、こうした事情と無関係ではないだろう。

(...) ここで指摘したいのは、ヴァーチャル・リアリティーが生み出すこうした異質なもの同士の「結び目」に似たものは、ある意味で私たちの現在の生活 の中にもすでに存在しているということである。映画やテレビは、ヴァーチャル・リアリティーに比べれば、画面の中の世界と私たちとを隔てる平面的な「スク リーン」に過ぎないが、しかし私たちがこれらの画面の中の世界から日々多大な影響を受けているという意味では、すでに疑いなく画面の内と外との「結び目」 の役割を果たしている。また、それらの画面の中のイメージは、二次元的かつアナログ的な限界の中で、相互に異質なイメージを様々に結び合わせたものになっ ている。さらに、私たちが住む環境自体も今や、自然的なものと人工的なものとが至るところで結び合ったものだといえるし、電話や衛星を通した通信はますま す物理的距離の意味を減少させ、留守番電話は、ごく単純な形ではあるが、ある種の代理人格としてすでに機能している(...)。

(...) この問題に関して大事なのは、異質なものが織りなす多様な「結び目」にいかに驚かされようと、今日の世 界を単なる文化的混沌とみてはならないことである。迷宮が一定の仕組みをもつように、この文化的迷宮にもそれなりの仕組みがある。この点で、ヴァーチャ ル・リアリティーに関するP・ケオの次の指摘は重要である。彼は、自然的現実がヴァーチャル・リアリティーと混淆すればするほど、身体の問題が浮き彫りに なってくると言う。なぜなら、人工的=模擬的な現実にいかに深く浸りきったとしても、私たちの身体(表象でもデジタルでもなくて、なまの身体)が、私たちの人生の出発点であり終着点であることは、変わりえないからである。まったく同様に、今日の文化的現実が異種混淆的なものになればなるほど、最終的には、 そうした現実がこの身体との関係において存在意義をもつものである点が忘れられてはならない。文化的迷宮に点在する様々な「結び目」は、もっとも深い部分で、私たちの身体と、たえまないフィードバックを営みながら存在している。今日の文化的現実をよりよく理解するためには、混淆や多様性といった特徴を、人間的現実にとって本質的な、こうした身体に根差した秩序化(あるいは組織化)への力との関係の中で把握することが不可欠である。

た とえば、さきにふれたチリの先住民マプーチェのケースで、伝統的なものと都市的なもの、マプーチェ語とスペイン語が混じり合うといっても、その様相を詳し く検討すれば、それらの混じり合い方には一定の組織性があることがわかる(...)。また、ガルシア=カンクリーニの出会った民芸家たちが、伝統的な民芸の中に現代ヨーロッパ美術を混ぜ合わせるといっても、ほとんど疑いの余地なく、それは何もかもの混合ではなくて、彼らがこれまで身をもって生きてきた習慣とイマジネーションに従った、一定の選択的、組織的な混合のはずである。さらに、現実にあまりに無秩序に近い文化的混合が生じた場合、人間がそ れに対して抵抗を示すことは、ガルシア=カンクリーニが調査した、メキシコ北部のアメリカとの国境の町ティフアナの事例がよく示している。アメリカへの入 国の拠点としてメキシコ全土から続々と人が集まり、毎日たくさんの人々が国境の南北を行き来し、スペイン語と英語が始終飛びかうティフアナで、そこに比較 的長く住んでいる人々は、自分たちを、単に町を通過していくだけの人々とは別枠の文化的存在(アメリカ文化にも中央メキシコ文化にも吸収されることのない 独自の存在)として考えようとし、時には「流れ者」たちを差別的な視線で眺めさえする。

(...) こうした人類学の実践はまた、一方で学問的厳密性を保ちつつも、小説や映画を創る実践とどこか類似したものになってゆくはずである。実際、新しい人類学が 問題をただ局所的、具体的な形でしか立てることができないのは、小説や映画の構想が局所的、具体的な形でしか立てることができないのに似ている。そして、 新しい人類学がその研究の結末に目指すものは、かつてのような何らかの学問的「結論」ではなく、「結び目を解くこと」、つまり、「結び目」の問題を局所 的、具体的な場の中で「解決」することであるが、そこでの「解決」という言葉の意味は、ちょうど小説や映画の結末で、それまでに編まれてきた複雑に入り組 んだ内容が、ある種の喜び(カタルシスといっても生命の肯定といってもよい)とともに「解決」される、という際のこの言葉の意味にきわめて近いものになる はずである。
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