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「先住民・近代・人類学」(1998[1993])

2012/04/20 6:00 に Tadashi YANAI が投稿   [ 2012/04/20 6:04 に更新しました ]
  • (...) [マプーチェの人々の社会経済的実践の中の]非資本主義的原理は,彼らの日常生活のなかで,しばしば資本主義的原理と衝突しつつも強くその存在を主張する。彼らは,一方では商品としての家畜の生産を行い,必要とあらばみずからの労働力を売って,市場経済の論理を完全に理解していることを示すのであるが,他方では,これとまったく反する,別の論理に従って行動するのである。そして,この<別の論理>が働く時こそ,彼らが,「我々はマプーチェなのだから・‥」と語りつつ,誇らしげに行動する時なのである。
  • (...) C・スミスは,市場経済の原理の侵入が農民社会に自動的に階級分解をもたらす,という,多くの論者が暗黙に認めている仮定に疑義を挟む。彼女は,グアテマラの民芸品製作者の経済についてのデータを踏まえ,市場経済の階級分離的な力は,ひとたび労働者が生産手段から切り離された後にはじめて発揮されるのであって,自然な条件下では(たとえば政府による介入などが行われない場合には),非資本主義的生産形式が資本主義的生産形式によって完全に駆逐されることはない,と論じる(...)。このように見れば,マプーチェの人々が,一方で資本主義経済と深く関わりながら(実際彼らはそれとかかわらずにはもはや生きていけない),他方で資本主義経済の論理の支配に対しては,これを拒絶し,抵抗を続けているのは,決して孤立した事例ではないのである。しかし,もう一方で,彼らの抵抗に対する圧力も強まっている。居留地はもうこれ以上経営単位を細分化できないところまで来ており,一家の子供たち皆が成人後も居留地に留まって生活することはできない。結局,多くの若者は,首都サンティアゴに職を求めて移住し,新しい生活様式を身につけてゆく(若者男子の44%,女子の49%が都市に移民する。他方,農地面積の縮小が,農業の集約化,近代化の方向への圧力となっていることも明らかであり,都市から戻ってきた若者たちによる文化的影響も相侯って,人々の生産に関する思考様式にも,少しずつ変化が生じてきている。(...)
  • (...) 社会経済的な領域において展開されているこのようなドラマは,また,彼らの生活様式の全体をめぐるドラマでもある。アルテュセールは,1つの社会の中に複数の比較的自律的な領域が共存していることを,複数の時間性が共存し節合している,と表現したが,それに基づいて述べるなら,ここで問題になっているのは,資本主義的な時間性と,非資本主義的なさまざまな時間性とのせめぎあいであり,それはまた,近代的な存在のあり方と,非近代的な存在のあり方のせめぎあいであると言えるだろう。結局,前節で文化変容の問題として論じ,この節で資本主義の問題として論じたことは,マプーチェの人々が<近代>にどう取り組んできたか,という大きな問題の,それぞれ一側面だと考えることもできるのである。
  • (...) この章では,マプーチェ社会を例に取り上げながら,レヴィ=ストロースが気付きながらも真剣な検討の対象とすることがなかった<文明化されたインディオ(先住民)>の問題を考えてきた。そうした作業から浮かび上がってきたのは,レヴィ=ストロースの記述の中では<野生の思考>に戯れる他者としてしか登場しない彼ら先住民が,我々と同じように伝統と近代のはぎまで,さまざまな葛藤を生きている姿であった。近代を生きること,それは,アメリカの文芸批評家マーシャル・バーマンによれば,「我々に冒険,力,喜び,成長,我々自身と世界の変化を約束するとともに,我々の持っているものすべて,知っているものすべて,あるいは我々自身をも破壊するかもしれないような状況に生きること」であり,「今日,世界中の人々に共有されている人生の経験の様式」である[Berman1983:15]。忘れてはならないのは,南アメリカの先住民たちもまた我々と同じく,一方で新たな自分を実現する可能性を開いてくれる,こうした近代に魅惑されていることである。そして一度この近代の魅力にとらわれた者にとって,超個人的な不変性の原理が支配する伝統的な存在のあり方は非常に窮屈に見えてくる。しかしながら,近代は他方で,自分を破壊するかもしれない恐ろしさをも持ち,そうした恐ろしさに直面した人は,再び伝統的世界の,あの安定した秩序の世界を懐かしいものと感じるようになる(3)。近代の持つこのような両義性を前にして,今日のマプーチェの人々は,我々とまったく同様,伝統と近代のはざまを揺れ動きながら,日々選択を強いられているのである。
  • (...) 対象としての<彼ら>を<伝統>あるいは<未開>のカテゴリーに自動的に押し込んでいくような思考形式を根本的に批判し,<我々>と同じように伝統と近代のはぎまで生きている<彼ら>について語ること。もし,そうした変貌を遂げることができるなら,人類学は,<我々>にとってだけではなく,<彼ら>にとっても興味のある学問になるであろう。それがおそらく,1935年にパラナ地方で暮らしていたインディオ達が,レヴィ=ストロースの記述の向こう側から,我々に教えてくれていることである。
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