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「映画の対象-映画における直接的なもの」(2006)

2012/04/20 5:53 に Tadashi YANAI が投稿   [ 2012/04/20 5:53 に更新しました ]
  • (...) テレビ画面で数々の目新しい出来事に接しながらそこに新味を感じないのは、我々が「経験を騙し取られた近代人」だからであり、テレビの映像が我々の中にある衝撃制御メカニズムを打ち破ってくれないからである。これに対して、我々が《晩春》の結末で笠智衆が一人リンゴを剥くのを見るとき、いつの間にかそうした制御メカニズムは消え去り、我々はスクリーン上のリンゴを「むきだしの原始状態」で眺めている。《晩春》という映画全体を通じ、また、結末のリンゴをむく笠智衆のショット自体を通じて、小津が、彼なりの方法によって我々の中の衝撃制御メカニズムを取り払い、我々を物事に直接的に接触させる準備を整えてしまったのだ。
  • (...) 「現実のより直接的なヴィジョン」である映画は、知性化に抵抗するような、言葉に表せないような身体の豊かな表現をスクリーンに映し出すことができる。映画がきわめて早い時期から、知性的な洗練を受けていないような、身体表現に満ちた一般大衆の生活世界――近代の知的エリートが多くの場合軽視してきた領域――を格好の物質=素材(マチエール)としてきたのも、その意味で自然なことであったと思われる。
  • 映画は、いわばボルヘスの「一本の直線からなる迷宮」のように、自らの中にいくつもの直線(運動の諸部分がもつ時間性)が折り畳まれた迷宮である。いくつもの直線というだけでは言い足りないかもしれない。直線が直線であると同時に曲がっていない曲線、破れていない破線、折れていないジグザグ線でもありうるという意味で、映画という「一本の直線からなる迷宮」は、無数の曲線や破線やジグザグ線をも可能性として内包したものなのだ。
  • (...) こうして、[映画を見る経験の中で]「考える(=映画を見る)私」は、絶えず再規定されつつある「自己」に立脚して、次々と新たなる思考上の冒険へと出かけてゆく。映画が優れたものであればあるほど、このような「考える(=映画を見る)私」と「自己」との時間の中での相互関係は、「自己」を深く変容させてゆくことになるだろう。フラハティーの映画の中の子供たちが、小津の映画の中のリンゴが、初めて見るような輝きをもって見えるのも、そうした自己の変容を通じて、我々が日常生活における硬直した知覚とは異なった、清新な視線で物事を眺めるようになるからだと思われる。(...) 「映画は(画面を一貫して見つめるような)魂の運動の模写ではない」(もっと平たく「映画はストーリーではない」と言ってもよい)ということ、まさに、画面を一貫して見つめるような魂の運動からの逸脱が生まれる瞬間こそが、真に映画的な瞬間であるということである。
  • (...) 「時間の蝶番が外れている」世界で、「私とは他者である」という逆説的な状況に身を置いて世界を眺めなおしてみるなら、所有主体そのものがその堅固な外見を失い、「自己」が未決定性の中で他者や他の物事と関係しあっていくような、所有の直接的な姿が見えてくるはずである。
  • (...) ハリウッド映画を中心とする主流の映画が、非常にしばしば「(根源的)所有のドラマ」というより「所有権のドラマ」とでもいうべきものに近づくのは、この意味で不思議ではない。つまり、それらの映画においては、「生きること」、「他者との関係」、「事物との関係」といった根源的所有の問題は、「生命」、「他者」、「財産・地位」への所有権の問題に平板化され、所有主体が周囲の様々な人々や事物と営む実用的でステレオタイプ化された関係が「ストーリー」として緻密に編み込まれたものが中心となるのである。ベルクソン的芸術としての「所有のドラマ」が、日常生活における所有権の関係――それはまた実用的でステレオタイプ化された関係と言ってもよい――から我々のヴィジョンを解放するものであり、そこにその存在意義を持つとすれば、「所有権のドラマ」は、むしろステレオタイプを土台とし、所有主体が困難を乗り越えて所有対象を獲得ないし維持するという「ストーリー」に巧みに観客を呼び込み、観客の中にカタルシス効果を生むことを「売り」とする。
  • (...) 優れた映画は、不協和音が協和音と一緒に鳴り響くことの美しさ、不協和音が鳴り響く「現実」の中を生きることの新しさと充実感を、知らず知らずのうちに我々に発見させてくれるであろう。映画は、もしかしたら他のどんな芸術よりも直截な形で、そのような意味で、我々に世界の中に住まうこと、あるいは住み・さすらうことを教えてくれるのだと言えるかもしれない。
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