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「映画を生きること-「住まうこと」と「さすらうこと」」(2006)

2012/04/20 5:52 に Tadashi YANAI が投稿   [ 2012/04/20 5:52 に更新しました ]
  • (...) この映画[アラン・レネ『二十四時間の情事』]において「彼女」は、広島の「現在」を生きていると同時に(それと競合しつつ共存する)ヌヴェールでの過去――より正確にいえばヌヴェールでの「過去における現在」――を生きているのであり、彼女が、異郷の広島での滞在を真に深く「住まう」ようになる過程は、彼女自身の中で故郷ヌヴェール――あまりにも痛々しい経験のためにその記憶を封印されていたヌヴェール――に、想像の中で再び「住まう」ようになる過程と重なっているだろう。「場所に住まうこと」とは、「現在」に住まうことであると同時に(現在と競合しつつ共存する)「過去の現在」に住まうことであり、また、ある場所に住まうことと同時に(それと競合しつつ共存する)他の場所に住まうことである、そういった問題系を、レネは次作の《去年マリエンバートで》(1961)でも、またそれ以降の一連の作品でも、一貫して追求していくことになるはずである 。
  • (...) 《秋刀魚の味》が興味深いのは、登場人物たちが生きる場所が、《浮草》とは反対に、何か「住まう」ことの堅固さ、安定感と結びつけばつくほど、そうした堅固さがその内奥から崩れていくような部分を持っていることである。というのは、ちょうどレネの《二十四時間の情事》で「現在」の広島が、ヌヴェールでの「過去の現在」と競合しつつ共存していたように、小津の映画においても、登場人物たちの「現在」は、今あるのとは別の「現在」の可能性や、また、彼らの「過去の現在」や、さらには「未来の現在」と結び合い、それらと競合しながら存在しているからである。晩年の小津のショットには、そうした他の時空の闖入を引き起こすような言葉や仕草や物が、実にさりげなく織り込まれているのであり――その意味で、そうしたショットは、時間的深度を持ったショットとでも呼べるかもしれない――、そしてそうした言葉や仕草や物を通じての異なった時空との接触が、独特のドラマ展開を支えているのである。
  • (...) ドライヤーの作品の中で、彼の祖国デンマークの哲学者セーレン・キルケゴールの名が現れるのは一度(それもユーモラスな形で)だけである。しかしドライヤーの映画が、この哲学者の思索と深く交流しあったものであることは、疑いないように思われる。(...) ドライヤーの映画の主人公たち――ジャンヌ、アンネ、ヨハンネス、ゲアトルーズ――は、「必然性」にすっかり没入して生きる人々の間で、生の偉大なる「可能性」を、自己の生の全体を賭して最後まで信じ切る。そして、彼らの企てが多くの場合に外面的には敗北に終わるにも関わらず、我々は映画を見るなかで、ジャンヌが、アンネが、ゲアトルーズが、そしてもちろんヨハンネスが、何か高いレベルで圧倒的に勝利しているのを感じ取る。その何か高いレベルとは、生における「可能性」の次元にほかならないのであり、それこそが、ドライヤーが示すところの、「生と死の間のさすらい」の決定的な真実なのである 。
  • (...) [アッバス・キアロスタミの映画における] ジグザグの道は、人間がその限られた視野の内で手探りで道を進んでゆく行為の結晶化であり、科学技術の高みから計画され実現された直線の道が覆い隠してしまうような真実――人間は究極的には、各々の限られた視野から人生を、世界を眺めているにすぎないこと――を示すものなのだ。(...) 確かに、人生そのものが目的性を持った直線的な旅ではなく――現代社会において、様々な擬似的目標が次々と我々に提示され、あたかも人生の意味そのものがそうした擬似的目標への直線運動であるかのように錯覚させられがちであるにせよ――、ちょうど小川が障害物にぶつかりながら流れるように、ただ「行くために行く」ことを本質とするような「住み・さすらい」であるとすれば、人生の意味は、そうした「住み・さすらい」が描く曲線やジグザグの外にはない。
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