断章‎ > ‎断章2003-2006‎ > ‎

「映像について何を語るか」(2003)

2012/04/20 5:49 に Tadashi YANAI が投稿   [ 2012/04/20 5:50 に更新しました ]
  • (...) 実際、もし映像(あるいはイメージ)が言語とは異なった性格のものであるな ら、映像(あるいはイメージ)について語る言葉は、つねに映像を歪曲して代表することしかできない、とも考えられるのである。しかし (...) 言葉は、それ自体はイメージではないが、し かし、読む者、聞く者にイメージを引き起こす働きをすることであり、そして、そうしたイメージなしには言葉の機能自体ありえない、という事実である。 確かに言葉は映像(あるいはイメージ)の本質ではない以上、言葉によってイメージを代表することはできない。しかし、言葉が聞き手、読み手に引き起こすも のがイメージである以上、言葉を、その可能性を最大限に駆使しつつ、適切に組み合わせるならば、映像に近似した効果を生み出すこともできるし、また、その 映像に言葉によってコメントすることで新しい効果(イメージ)を聞き手、読み手の中に生んだり、また、聞き手、読み手が新しい映像を創造するための種を与 えたりすることも可能なはずなのである。
  • (...) 『シネマ2』の末尾で、彼[ドゥルーズ]は次のように述べる。「映画の理論とは映画についての理論ではなく、映画が呼び起こす概念についての理論であり、それらの概念はそれ自体、他の諸実践に対応する他の諸概念との関係の中にある。(...) 物事が作られるのは、存在が、イメージが、概念が、つまりあらゆる種類の出来事が作られるのは、〔そうした〕様々な実践が干渉し合うレベルにおいてなので ある。映画の理論は映画についてではなく、映画の概念についてのものだが、それらの概念は、映画そのものに劣らず実践的であり、実効的であり、実在的なの だ」。 ドゥルーズは『シネマ』において、彼自身の目的のもとに、さまざまな映画作品を「概念」のレベルで考えるのだが、その「概念」のレベルというのは、実は、 映画監督のみならず、他の芸術家や、哲学者や、科学者が、それぞれの創造的活動の中で思考をめぐらす共通領域なのである。そこから、映画について考えること、映画が生み出した様々な「概念」について考えることは、ドゥルーズ自らが創造的活動を行なってきた領域、つまり、哲学の領域における様々な「概念」について考える作業と交叉してゆくことになるだろう。
  • (...) ユクスキュルのこの生物学的=哲学的理論の中で、映像との関係においてとりわけ興味深いのは、各々の生物が認識可能な最小限の時間(瞬間)を持っているという指摘である。 この考えに基づくなら、映画が我々の眼に連続的な「動き(運動)」として映るのは、ただ単に人間の視覚が1/18秒以下の時間を捉えられないからだけでは なく、もっと一般的に、人間のあらゆる感覚(聴覚、触覚等)がそれ以下の時間を捉えられないからであって、いうなれば、人間の知覚の全体がそれ自体、 1/18秒ごとのぶつ切れの経験から成り立っている、ということになるだろう。 すると、翻ってみるなら、自然知覚によって我々が捉える「動き(運動)」もまた、実は、(映像とまったく同様に)一種の心的努力によって我々が再構成して いるものだということになり、その点では、自然知覚の経験と映像(写真も含めて)を見る経験の間の差異は、結局のところ、かなり相対的なものだということ になる。フィルム上の映像がしばしば我々に対して、自然知覚によって捉えられる現実に劣らないほど影響力を及ぼしうるという、我々の日常的経験も、このよ うに見れば、きわめて納得のゆくものになる。
  • (...) この[プラトン『ソピステス』における]コピーとシミュラークルの問題を念頭において、映像に戻ってみよう。確か に映像は、受容者にあたかも現実を見ているかのような(自然知覚のような)効果を与え、しかし、その効果は現実にもはや依存しないという点で、シミュラー クルだといえる。しかし実は (...) 映像は、ドゥルーズのいう「行動イメージ」を軸にして展開する限 り、それらは一方でシミュラークルでありつつ、他方で映像の背後にある言説に対するコピーとして存在するのであり、その意味で、そうした映像は、それ自体 がイデアの超越性の支配下にあるだけでなく、そうした映像を受容する我々をもイデアの超越性の下に追い込んでゆく危険をはらんでいると考えられる(...) 。これに対して、20世 紀の中葉から、「時間イメージ」を軸とした映像制作によって、一部の映画監督たちが「カント的」革命を達成する時、それは、映像的言説のイデアから解放さ れて、完全にシミュラークルの力能に拠って立つものとなるだろう。そこでは、映像自体の差異を生み出す力、創造力が、我々を捕らえ、世界との新しい、内在 的な関係の中に導いてゆくのである(...)
  • (...) スクリーン(画面)に映し出される映像は、それ自体はもちろん、「いま・こ こ」から分離されたフィルム上の「作品」としてのイメージであるが、しかし、それを見る受容の経験の場においては、受容者の「いま・ここ」とすでに不可分 のものとなっている。そして、スクリーン上に映し出されるイメージは、受容者の身体にとってみれば、原理的にはまず、すべて知覚イメージであって(その知 覚イメージの内部に、いわば入れ子式に、フィルム上に定着された様々なタイプのイメージがある)、その知覚イメージが、受容者の身体に働きかけて、その身 体の内に変様を引き起こしてゆく(感動とはこの変様が高まって本人に知覚可能なレベルに達する事態に他ならない)。映像の問題を真に考えるためには、作品内部でのイメージの問題のみならず、映像の受容の局面における、こうした受容者の身体による知覚と変様をも含めて論じることが不可欠なはずである。
  • (...) ライプニッツ的世界を根底で支えていたのは、神が最善の可能世界を選ぶという 前提(最善の原理)であった。しかし、「カント的革命」を経て、もはや我々が「現れるもの」だけを認め、背後に「永遠の真実」の世界をナイーブに想定する ことができない時、我々がもはや、現実の意味をある唯一不変な形で決定するようないかなる世界観をも信じることができない時、ライプニッツによって不共可 能として排除されていたもの(シミュラークルたち)が、この世界に、我々に目まいを覚えさせながら、一斉に回帰する。そして我々の眼前には、「海戦が明日 起こる」という言明が「明日起こらない」という言明と同時に真実であるような、決定不能で常に「新しさ」――「永遠の真実」が物事をあらかじめ律していないという意味で――を内包した世界が広がってくるのだ。 それはまた、しばしば我々の感覚運動連関を停止させ、不安と飛躍とを引き起こすような世界であり、さらに、後でも述べるように、この世界は、本質的にユー モアに満ちた世界でもあるだろう(実際、「海戦が明日起こる」ことと「明日起こらない」ことが同時に真実であるような世界とは、ユーモアなしにはつきあえ ないからである)。
  • (...) 彼ら[ストア派哲学者たち]は、「成り行き」(destin)と「必然」(necessite)と を区別しようとした。つまり彼らは、「実在的因果性の空間における『成り行き』そのものは避けることができないとしても、出来事の空間における意味づけは 必然的に定まるわけではない」と考える可能性を、曖昧さを残しつつも、切り開いたのである。ライプニッツは、共可能性の概念を提起することで、まさにこう した、出来事のレベルあるいは意味のレベルにおける多元性を厳密に表現することに成功するのだが、しかし彼はそれと同時に、最善の原理によって、この多元 性を再び排除してしまう。「カント的」革命を経て、不共可能世界の共存を肯定することは、この排除された多元性――変様の空間、不特定の空間における出来 事あるいは意味の多元性――を取り戻すことにほかならないだろう。
  • (...) 動物たちが周囲から発せられる表徴に対してたえず注意を払い、それらの表徴を もとに彼らの環境世界の中での生を営み、テリトリーを組織するように、我々もまた、周囲のイメージ(自然知覚も映像も共に含めた意味での)から発せられる 表徴によって我々の環境世界の中での生を営み、テリトリーを構成する。そしてこのことは、日常生活における経験においても、また芸術作品をめぐる経験にお いても変わらないだろう。 あらゆる芸術(あるいはスペクタクルの)作品は、イメージと表徴の体系であり、受容者はそこから自らの必要と能力に応じて、自らにあった表徴を抜き出し、 自らのテリトリーを組織するのである。ただし、芸術作品の場合、このテリトリーの形成は、受容者自身が行動する現実的空間においてではなく、受容者の身体 における変様の潜在的空間の中で行われるという特異性は確かにあるのだが。
  • (...) 我々が現実をどのように見、どのように感じ、どのように考えるべきかまでも が、たえず知識として与えられてくる現代の世界。そうした現代の世界において、世界を本質的に「知られざるもの」を含んだものとして信じること(哲学的に 言えば、徹底的に内在性の思考を貫くこと)、それこそが、あたかも何でも知っているかようにみえ、我々を卑下させる超越的な権力に抵抗して、我々自身が、 我々自身の身体をもって、本当の意味で「世界を知り」、その中で我々の生を築いてゆくための出発点であり、そのことの意味は、「知」がコントロールされれ ばされるほど、ますます重要になってくるはずなのである。
Comments