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「情動をモンタージュする-フレデリック・ワイズマンのニューヨーク」(2011)

2012/03/10 21:24 に ユーザー不明 が投稿   [ 2012/03/10 21:24 に Tadashi YANAI さんが更新しました ]
  • (...)  映像は具体的なものであり抽象的なものの表現に向いていない、としばしば言われるが、ワイズマンの「不可能な企て」は、まさに具体的なものによって抽象的 なものを表現すること(...)から始まる。その基本的な、ワイズマン独特の手続きを、ここでは「ショットの切断」と呼んでおこう。(...) 《法と秩序》の序盤、警官志望の若者が面接を受けている。警官志望の動機を尋ねられ、人助けしたい、と述べる若者に対し、面接官は出し抜けに、君は人を銃 で撃てるかね、と質問をする。若者が分からないと答えると、面接官は、それは君も考えてみたはずだ、どんな条件下で人を撃てると思うかとたたみ掛けるが、 その質問に若者が答える前にワイズマンはこのシーンを切ってしまう。(...) ワイズマンが編集の中で強調点を置くのは具体的な人物の具体的な行動ではなくて、人物や事物の中の「動揺の状態」であり情動(アフェクトゥス)であって、 それが他の登場人物の中の情動(アフェクトゥス)や、映像を見る我々の中の情動(アフェクトゥス)と反響してゆくのである 。
  • (...) 《福祉》の場合、様々なシークェンスの中で、同様のトラブルが、微妙な差異を含みながら繰り返し反復されることによっ て、次第に何かコントロール不能な、量的な圧迫感が生みだされてくる。法は理想的な条件のもとではすべてが明瞭であるが、扶助を求めてくる人々の場合、た いてい家族関係も複雑で、一日一日を生き延びるために住所を頻繁に変えることも多く、そのために福祉センターや社会保障センターの情報も混乱していて、結 局、書類の不備のケースと扶助制度の悪用のケースとがしばしば識別不能になってくる。(...) 金曜日の夕方になって、書類不備で月曜日にもう一度来いと言われたら、彼らは瀬戸際に立たされる。扶助を受けられなければ、住居も食べ物もないからだ。法 の無時間的な時間性のもとでは金曜日の次に月曜日が来るだけだが、人間の生身の身体にはそれ自体の時間性があるのであり、金曜の晩から月曜の朝まで、何か を食べ、どこかで寝なければならない。
  • (...)  バージャーは、「広告は本質的に、現実とではなく白昼夢と結びつく」のであり、「広告は、未来形で語る。しかしその未来への到達は果てしなく先に延ばされ る」と書く。[《モデル》が描く]広告の時間は、まさに人々を「自分もそうありたい」と夢想させる、ある「未来」へと引っ張ってゆく時間であるが、しかし その白昼夢は、それが白昼夢である限りにおいて、本質的に実現不可能なものだと言える。ただし、(...) 広告が作り出す白昼夢は、たとえそれが永遠に未来形であるとしても、それを白昼夢として生きること――あるいは、少なくとも、そのように生きることへと誘 う魅力そのもの――には否定しがたい現実性がある。
  • (...)  イントロの数ショットのあと、《セントラル・パーク》は、「開かれた閉鎖空間」とでもいうべき資本主義的な経済システムの外側で暮らす者たち――公園に棲 む鳥たちや小動物たち――のショットによって始まる。確かに、それらの動物たち、また、映像に繰り返し現れる草木や岩や道路や橋は、スピノザのコナトゥス さながらに自己の存在に固執しつつ、セントラル・パークという場所を支える、不可欠の主体である 。(...) セントラル・パークは、人々が自然の中で休息を求める場所でもあれば、スポーツなどのレクリエーションの場所でもあり、政治的アイデアを表 現・共有・示威する場所でもあれば、大規模なコンサートが行われる場所でもある。そうした時間性の間の齟齬は、広大な公園の各部分が特定の機能を担うこと によって通常は表面化しないとはいえ、時には激しい衝突をも引き起こす。セントラル・パークはだから、自然と人間の様々な時間性が併存するだけでなく、競 合する場所でもあるのであり、もし様々な時間性が調停されずに放置されれば、公園はたちまち荒廃してしまうだろう。
  • (...)  法学者として出発したワイズマンが法学に見出しえず映画の中に見出したもの、それを一言で言うなら、人間が「身体をもつ」ということではないだろうか。法 のシステムは、主語(主体)が述語(行為や状態)を律することを前提とするが、しかし人間が「身体をもつ」という根本的事実は、そうした前提の不確かさを 露呈させる。《福祉》における、飢え、睡眠を求め、また病気になり、路頭に迷う身体、《モデル》における、華やかに輝くとともに疲労する身体、そして《セ ントラル・パーク》における、公園の自然や公園に来た他の人々と多種多様な関係を取り結ぶ身体。(...) 法を身体の中に、主語を述語の中に、制度を生の中に置き戻すこと、そしてその上で制度=施設(インスティテューション)におけるそれらの錯綜した関係を考 えること、これがワイズマン映画の一貫した企てなのである。 
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