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「第三種の政治に向かって ―人類学的生権力論の一つの試み―」(2013)

2014/06/21 1:00 に Tadashi YANAI が投稿   [ 2014/06/21 1:49 に更新しました ]
  •  (...) ブランショの『終わりなき対話』(一九六九)を片手に端的に述べれば、フーコーの直観とは、あらゆる関係は常にそれ自体を掘り崩すような無関係を伴っているということ、人間の生はある根源的な無関係性に根差しているということ、とでも言えようか。フーコーが、一九六〇年代の著作で、言説の体系や事物の体系について論じたとき、それらが常に移行、切断、組み換えの可能性を含んでいると考えたこと、また言説の体系と事物の体系が異なる秩序を形成し、両者の間に裂け目があると考えたことの背後には、そうした体系の見かけ上の堅固さにもかかわらず、それらが実は内部から無関係性によって浸食されている、という直観があったと考えることができる。だからそれらの体系はいかなる普遍性によっても基礎づけられず、それらを記述する作業は、下から、順繰りに行うしかないのである。一九六〇年代末になると、フーコーは言説の体系や事物の体系の下部で蠢いているはずの、無関係性を帯びた関係の連鎖をよりダイレクトに見据えて、それを権力関係として考察しはじめる。そうした権力関係は、一方では一定の方向に整序される傾向性を持ちながら(この傾向性は、より安定的な、言説の体系や事物の体系を通じて一定の堅固さを獲得する)、他方では、それがまさに無関係性を帯びた関係であるがゆえに、常に揺れ動き、逸脱していく可能性を秘めている。フーコーが一九七〇年代、順繰りにいくつかの権力形式を検討していく時、そうした権力形式は、言説や事物の体系よりずっと不安定で、かつ並列的なものとして扱われることになるだろう。様々な権力形式が、重なり合ったり、対立しつつ並存したりする――これは、フーコー的な生権力論の可能性を受け止め、発展させていくために、根本的に重要な見方だと思われる。
  • (...) ブーランヴィリエは実はスピノザの『エティカ』の最初のフランス語訳者としても名を馳せ、『神学政治論』や『政治論』など、スピノザの政治的著作にも深く通じていたと考えられる人物であった 。彼が歴史的手続きを通じて、フランス国王による司法権力の確立を批判し、ゲルマン系フランク人集団の固有性を肯定した時、スピノザの二つの政治的著作が彼の支えになった可能性は高い 。フーコーは、ブーランヴィリエたちが創出したのは「自分たちに固有な習俗習慣や自分たちだけの特定な掟を持つ一定数の個人からなる社会」についての言説だったと述べているが 、スピノザの『政治論』には既に、「およそ人間というものは、野蛮人たると文明人たるとを問わず、いたるところで慣習的結合を形成し、何らかの社会状態(キウィタス)を形成」するという、類似した内容の言葉がある。そこでスピノザが肯定したのは、ホッブズが考えたような上から一気に樹立される国家とは異なる、それぞれの慣習をもとに下から形成される社会集団であった。フーコーのいう人種主義の言説とは、まさに、スピノザとブーランヴィリエが思考可能にした、下から形成される集団の固有性の擁護のことであり、それはクラストルの「遠心力の論理、多の論理」とも直接関連づけうるものだろう 。一九七六年初頭、生権力の問題にこれから全面的に取り組もうという時に、フーコーがこうした問題を踏み込んで扱ったことは興味深い。彼はそうやって、生権力のテクノロジーが持つ強力な、いわば「求心力の論理、一の論理」を分析する前に、そこから常に自由でありうるような思考の地平を確保しようとしたのだと思われる。
  • (...) ベンサムのパノプティコンほど有名でもなく、洗練されてもいないこのイチゴ競売所の建物――そしてそこでの人間と情報の分離、可視性と不可視性の配分、「純粋な競争」の空間の維持の努力――は、人間が「自分自身の企業家としてのホモ・エコノミクス」として現象するための現実的条件が整えられる様子を具体的な形で理解させてくれる。この建物と何らかの意味で類比的な有形無形の装置が我々の社会の随所に置かれ、様々な権力関係が、新自由主義の「現象的共和国」に向かって整序され、増幅されていくこと。さらに、そうした権力関係の整序と増幅が、通常の意味での経済の領域を遙かに超えて、今日の我々のほとんどあらゆる領域を覆いつつあること 。そして、もし重農主義や自由主義の時代における「現象的共和国」がおおむね自然の現れの延長線上で理解できたとすれば、今日の「現象的共和国」は、現れの現れ、現れの現れの現れ、という具合にますます膨張しつつあるのであり、その不可知性も広がるばかりである…
  • (...) 南米諸国における政治的多元体の中で、ロビンソンとフライデーはどのように建設的な対話を続けることができるのだろうか。自身がペルー人メスティソである(つまり先住民ではない)デ・ラ・カデナは、自分は先住民に共感することはできるが、先住民と全く同じように「大地-存在」を信仰することは不可能だと考える。しかし彼女はそこで、人類学者マリリン・ストラザーンの「部分的連接」の概念を手がかりに 、「相異なる二つのもの」の総和は必ずしも「2」になるのではなく、しばしば「1以上だが2以下」になるのだと考える。「先住民」と「メスティソ」は、実際のアンデス諸国の歴史の中では相互に影響しあい、部分的に重なりあってきたのであり、だからその総和は「2」ではなくて、「1以上だが2以下」であるはずだ。とすれば、先住民でなくても、また先住民のように「大地-存在」を肌で感じて信仰していなくても、彼らの政治的宇宙(ユニヴァース)に部分的に連接することは可能だろう。しかし、デ・ラ・カデナが言うように、この部分的連接を無理に急いで作ろうとすると、結局、彼らの政治的宇宙(ユニヴァース)を自分たちのそれに強引に引き込もうとして、対話を破壊することになる。先住民の政治的宇宙(ユニヴァース)を正しく受け止めるには、まずは自分の政治的宇宙(ユニヴァース)を忘れることから始めなければならない。知識――近代の科学-政治の単一体(ユニヴァース)に属する知識――を増やすのではなく、むしろ減らすことから始めなければならない。そして彼女は、イザベル・スタンジェールの言葉を借りつつ、「無学者(イディオタ)」になって「理性の働きを減速する」という手続きの重要性を訴える 。
  • (...) 第三種の関係とは何か。それは、ブランショによれば、「他なるものの接近不可能な現前」であり、あらゆる同一性や全体性を免れる関係、関係なき関係であって、別の言い方をすれば、関係に入ることによって他者がその他性を一切失うことのないような関係である。南米におけるロビンソンとフライデーの対話を念頭におけば、この第三種の関係も明瞭に理解することができる。実際、デ・ラ・カデナの、無学者になって他者の政治的宇宙との距離を保ちながら関係を作るという姿勢は、このブランショのアイデアと正確に対応するものだろう。
  • (...) フーコーの思考の一貫した特徴は、彼が求心力と遠心力の間、社会の中心と周縁の間、マクロとミクロの間を身軽に行き来しながら考察を進めることであった 。そこで私は、ブランショの第三種の関係の概念に、このフーコーのダイナミックな思考の運動を加えて、それを「第三種の政治」と呼びたいと思う。そして、今日の世界の様々な場所で、様々なレベルで存在している、第二種の関係や第一種の関係を経験的に、緻密に眺めること、そして、その中に潜んでいる第三種の関係の現実的な表出の方途を見いだしていくことこそが、人類学がフーコーを引き継ぎながら担いうる、きわめて重要な作業だと考える 。なぜなら、新しい世界とは、ただ第三種の政治のみから生まれうるのだから。
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